全国障害者解放運動連絡会議・相談役 楠敏雄氏を追悼する

 2月16日の午前11時36分、長年に渡り「障害者」解放闘争を牽引し、闘いぬかれてきた楠敏雄氏が腎不全により逝去された。1944年生。享年69歳。北海道岩内町出身。
 2歳の時両眼を失明。盲学校から龍谷大学に入学。同大学院英米文学科修士課程卒。
 氏は、大学在学中から「障害者」解放闘争を開始し、それ以降、氏の人生はまさに「障害者」解放闘争とともにあった。
 氏は、1976年8月の「障害者」の「自立と解放」を掲げた全国障害者解放運動連絡会議(全障連)結成に尽力され、以降は、事務局長として、代表幹事として、そして相談役として、常にその中心にあった。
 結成当時の全障連は、文部省前での養護学校義務化阻止闘争を差別実力糾弾闘争として闘い、赤堀差別裁判糾弾闘争を静岡地方裁判所に対する闘いを中心に闘いぬいていたが、氏の姿は常にその最先頭にあった。また、各地における「障害児・者」の普通学校への就学闘争でもその最先頭で闘いぬかれていた。1978年11月26日、全国「精神病」者集団、全障連、各地区「赤堀さんと共に闘う会」で構成する赤堀中央闘争委員会が結成されたが、氏は執行部の一員として、赤堀氏が奪還されるその日まで活躍されていた。
 一方で、氏は、当時の全障連の闘いの方向性を理論的に確立しようとし、「全障連基本要求要綱案」を提出している。そこでは、「階級社会(支配)の構造的必然として発生する差別」を解明しようとされており、資本主義社会においては必然的に差別が生みだされ、政治的・経済的支配(階級支配)の一環として、支配階級は不断に差別を助長・利用しながら支配を貫いていくこと、従って「階級支配の廃絶」は「障害者」解放にとって、あくまでも必要不可欠な条件であることを明らかにされている。また、「反差別―優生思想・社会防衛思想との対決と反戦・反権力の闘い」の重要性を提起されていた。更に、「行政闘争とは障害者の差別されている実態を変える闘いである」「…行政とぶつかる中で…差別されていることを自覚する必要がある。それなくして要求闘争は意味がないのである。その自覚を更に政治的自覚まで高めることが、自立と解放をめざす社会変革の闘いとしては必要なのである」と氏は、指摘されていた。氏は、その姿勢を終生貫かれた。
 1980年代末から、すでに氏は人工透析を受けるなどの満身創痍の身ではあったが、卓越した指導力と強い精神力で他の「障害者」団体との共闘関係を築き上げつつ、「障害者」解放運動の再構築をめざして奮闘していたのである。
 氏からは、宇都宮病院入院患者差別・虐殺糾弾現地闘争には毎年、連帯アピールをいただいた。また、6・15安保粉砕・政府打倒全国統一行動や10・21反帝―国際連帯全国統一行動にも連帯アピールを寄せられていた。
 昨年12月22日、全国の「障害者」「精神障害者」、労働者によって全国「障害者」解放運動共闘会議が結成された際には、氏は病床から「大会の成功と全『障』共の発展を心より願っています。『障害者』解放に向けて、どうか頑張って下さい。私もあくまで共に闘います」という連帯メッセージを寄せられている。残念ながら、これが氏からの最後のメッセージとなってしまった。
 氏は、まさに死の直前まで「障害者」解放闘争に闘志を燃やされ、闘いのなかで逝った。
 深い哀悼の意を表するとともに、氏の闘いを継承しながら、「障害者」解放闘争を闘いぬくことを、ここに決意し、追悼とする。

刑法改悪阻止関東活動者会議