花が美しいという感性に「障害者」と「健常者」に、一体何の違いがあるというのだろうか?

                    天皇上陸阻止沖縄青年実行委員会  大城良司

 

 子供の頃、近所に片手が不自由な少年(右手か左手かはっきり記憶にはない)がいた。私と同じ当時まだ、小学4年生位の子だったという記憶がある。私は少年が、子供心にも不便に思えた。近所の同世代の子供たちは、彼の事を「かたわ」と呼んでさげすんだ。私には何故か、その「かたわ」という言葉が酷く汚く感じた。しばらくは彼に対してその言葉を言う事はできなかった。ある日、その少年とささいな事で言い争いの喧嘩になった。私は思わず、彼に向かって、この「かたわ」といい放ってしまった。なんとも後味の悪い罪悪感に数日間、悩んだ記憶がある。「みんな仲良く」と書かれた教室の黒板の上の太文字が、虚しく心に響いた。そしてある日、自らが精神を病んだ瞬間、彼の無念さを初めて我が物として感じ取り、その苦しみを共有化する事ができたのである。

 

  人間は様々な悩み事を抱えて生きている。そして様々な「障害」を抱えて生きている人間も決して少なくはない。それが現実であるのに、「健常者」の目線や生活感覚や人間関係からのみ、生活環境を規定しようとする。そして「障害者」であるという事のみで、この社会から排除しようとする。体の一部を病気や事故で失い不自由である、あるいは生まれながらにどこか不自由である、または何かのはずみで心を病んだ人をこの今の資本主義社会は除外・排除しようとする。「障害者」であるという事だけで、その人間が持つ様々な可能性や才能は無視、抹殺されさえする。

 

 花が美しいという感性に「障害者」と「健常者」に、一体何の違いがあるというのだろうか。男性が女性を、女性が男性を好きになるという人間としての自然の感性に、何故あれこれとケチつけをして、あわよくば否定しようとさえするのか。人間の生きるという形や、愛情を抱くという自然の感性に「健常者」や「障害者」の間に唯の1ミリの違いもあるはずもない。共に生き、共存する社会がいまだ、日本で世界的規模で形成されていない。だからこそ、私たち「障害者」こそが、この差別に満ちた「障害」があるというだけで社会から除外・排除しようとする、この社会を根本的に変革していかなければならない。「障害者」、「健常者」の分け隔てなど微塵もない、人間がごく当たり前に生きる社会を建設していきましょう!「障害者」は、「健常者」の側から、哀れみを受ける対象でもないし、いやしまれ、差別・除外視され、排除される対象でもない。そして、「障害者」を資本主義社会の職場生産点から排除し、あるいは戦争に役に立たないからと抹殺する資本主義を打倒する闘いを今こそ開始しようではありませんか!人間の生きる姿、形に本来定義などあるのだろうか。あるとすれば、それは資本主義―帝国主義が他国への戦争を行なうための生産点で役に立つかどうか、他国労働者人民の虐殺に物理的に役にたつかどうかという手前勝手な尺度でしかない。私たち「障害者」こそが、先頭にたってそんな腐敗した資本主義―帝国主義を粉砕して、人間が当たり前に生きていける社会へと変革していかなければなりません!

 

 「健常者」との〈共闘・共生〉を否定する「障害者総合支援法」の撤廃!差別糾弾闘争を非合法化する「障害者差別禁止法」制定要求を踏み越えて闘おう!

 

 宇都宮病院の「精神障害者」差別・虐殺を自らの隔離・収容の体験から告発し、倒れるその寸前まで、宇都宮病院解体の闘いをやりぬいた故安井建彦氏の意思を引き継ぎ、闘っていこうではありませんか!「精神障害者」の事実上の隔離・抹殺である「心神喪失者等医療観察法」の撤廃をかちとっていこう!

 

 「視覚障害者」の立場から、あらゆる種類の「障害」を抱える人達、全ての被差別大衆・人民との連帯・団結を訴えながら「障害者」解放を闘い抜かれた故楠敏雄氏の意志を引き継ぎ、闘っていこうではありませんか!

 

 資本主義―帝国主義の「優性思想」を撃ち破り、ファシズムを粉砕しよう!

 

 全ての「障害者」の皆さん、そして「健常者」の皆さん、共に人間解放の偉大な事業である、「障害者」解放の闘いに勇躍決起していこうではありませんか!