障害者の生存権を危うくする「尊厳死法」案の問題点

                       福岡・「障害者」解放を目指す会  利光 徹

 

 私は福岡の地において、「青い芝の会」として長年に渡り優生思想と闘い続けてきた者です。我々脳性マヒ者をはじめとして、「重度」と呼ばれている障害者が、なぜ「尊厳死法」案に対してこの30年以上にわたって反対してきたのかというと、いくつかの問題点が挙げられる。

 

 まず第1に押さえておかなければならない点として、「尊厳死」なるものが、どういう経緯で出てきたかということである。推進派の言葉を借りれば、「尊厳ある死に方を自分で決める」とか、「苦痛を伴う末期患者に対して安らかな死を」などという美談となるのだが、いかにも人間の死を美しいものでなければならないという論理が働いていることは言うまでもない。

 

 しかし現実には、人間の死において「綺麗な死」なぞは存在しない。いったい「美しい死に方」という言い方は何を指しているのだろうか。我々脳性マヒ者にとってみれば、そもそも存在自体を否定され続けてきた歴史があるし、その中で昔からよく言われてきたのが、「社会の役に立たないものは死んだ方が役に立つ」という一方的な価値観である。この価値観のもとで、多くの仲間たちが生まれる前から、また生まれてからも、身近な肉親などによって、肉親の「愛」という名によって、殺されてきたのである。このような現状の中において「尊厳死」なるものが語られ、人間の死を法律で決めること自体が、「脳死・臓器移植法」と同じように、またそれ以上に、今までの死の概念を歪めていくのである。

 

 第2の問題点としては、「自己決定による死の選択」と言われているが、これも言葉のまやかしにしか過ぎない。誰がそれを最終的に決定していくかというと、それは医療従事者であり、特にそのような偏った思想を持った医者と出会った場合、誰が歯止めをかけられるのか。

 

 第3の問題点としては、推進派は「あくまで終末期医療においての苦痛を減らし、自己の死に方を自分で決めることだ」と言っているが、意思疎通のできない、あるいはそのことすら難しい患者や「意識障害」などによってコミュニケーションすらとれずにいる人々にとっては、まさに「尊厳死」そのものが、自らの死と直結することを意味しているのである。私の知人にもいるが、コミュニケーションがないと言われてきた多くの仲間たちが、この問題について自分自身の生存がかかった問題として考え、いま全国あちこちで反対の声をあげていることを知ってもらいたいのである。

 

 一例をあげれば、北陸地方の新聞に掲載された記事の中で、11年前に病で倒れ、「意識がない」と言われていたNさんという青年が、ある方法によって自分の意思を他人に伝えることができた。Nさんはこう訴えている。「尊厳死について、とても話がしたかったので、うれしいです。僕の話を聞いてください」、「僕は、尊厳死は嫌いです。僕のような人でも、みんなと一緒にいろいろなことができると訴えたいです」。医師からは「絶対回復しない」と言われ続けた11年の間、奪われてきたコミュニケーションの中でたえず考えてきたことは、「尊厳死」がもし法制化されると社会的弱者に死を迫る無言の圧力が生まれるのではないか、そのことを一番危惧していると、Nさんは感慨深く語っていることが報道されている。

 

 今の話はほんの一例に過ぎないが、少なくとも今この瞬間にも、自らの死と直結してこの問題を考えている人たちが数多く存在していることを、決して忘れてはならないのである。