2・13 鈴木国男氏虐殺40ヵ年糾弾集会かちとる

 2月13日、「反戦・反失業を闘う釜ヶ崎労働者の会」は、「鈴木国男氏虐殺40ヵ年糾弾集会」を西成市民館で開催し、成功をかちとった。

 

 午後12時半、「釜ヶ崎労働者の会」の仲間が、「1976年2月16日、『暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)』で闘い、全国『精神病』者集団で闘いぬいていた鈴木国男氏(デカパン)が、大阪拘置所で保護房に叩き込まれ、体温を下げる注射を打たれ虐殺された。国家権力の虐殺を決して許さず、40ヵ年糾弾を闘おう」と、開会を宣言する。

 

 はじめに、集会基調が提起される。

 

「デカパンが寄せ場労働者として、また『精神病者』として、釜ヶ崎で闘った歴史や、闘いの渦中で国家権力により大阪拘置所で殺されたという事実は、単なる『歴史』ではなく、俺たちの闘いの中味の問題、団結の中味の問題として、今も俺たちに問われている」

 

「1976年の冬、デカパンは、『傷害』で逮捕され、大阪拘置所に勾留された。彼は、『精神病』の最中にあり、着衣を脱ぎ捨てているにもかかわらず、暖房もなく換気扇で外の寒気にさらされる中で放置された。さらに体温を下げる注射をうたれ、凍死へと追い込まれた」

 

「デカパン虐殺40ヵ年にあたって、俺たちは次のことを確認し、これからの釜ヶ崎の闘いを打ちぬく。(一)デカパンの虐殺は、国家権力の暴力装置である監獄内での虐殺であり、寄せ場労働者解放・『精神病者』解放の戦士であったデカパンに対する、徹底した『精神病者』差別による目的意識的虐殺であった。(二)デカパンの虐殺は、『過去の問題』ではない。政府―国家権力は、寄せ場労働者に対してアブレ(失業)地獄―野垂れ死に攻撃を強めており、闘う労働者には弾圧を強めている。また、『心神喪失者等医療観察法』によって、誰にも予測できない『再犯の可能性』を語り『精神病者』を保安処分施設に隔離する攻撃を強めている。『心神喪失者等医療観察法』撤廃をかちとり保安処分施設を解体しよう。『精神病者』差別―抹殺攻撃を打ち破ろう。(三)当時、釜ヶ崎労働運動内部でデカパンを孤立させ排除・追放した。彼の『病状』を悪化させ、国家権力の差別による虐殺を許した。それは、釜ヶ崎労働運動内部で『精神病者』に対する差別があったからだ。この事を痛苦に受けとめなければならない。寄せ場労働者の闘いと『精神病者』解放の闘いのとの共闘をするためには、デカパン虐殺糾弾の闘いを避けて通る事など決してできない」。

 

集会基調は、圧倒的な拍手で確認された。

 

 基調提起の次に、一本目の映画として「人間を取り戻せ! ―大久保製壜闘争の記録」が上映された。当時、大久保製壜は、「身体障害者」や「知的障害者」を半数以上雇い入れ、国や行政から何度も表彰される「福祉モデル工場」であった。ところが、実際には、「障害者」に対する言葉による暴力、殴る蹴るの暴行、女性「障害者」への「セクハラ」などが横行した。「健常者」の社員と同じ作業にも関わらず給料もボーナスも非常に少なく、20日間連続夜勤などもあたりまえであった。1975年、当事者たちは、怒りを爆発させ闘いに起ち上がった。「障害者」と「健常者」は、固く団結し労働組合を結成。分断攻撃を粉砕し、困難を乗り越え21年9ヵ月闘いぬき勝利していった。参加した労働者は、迫力のある闘いに熱心に見入った。絶対に敵を許さず仲間を信じ団結して闘うことの素晴らしさをあらためて実感していった。

 

 2本目は、「車輪の一歩」(1979年、NHK)というドラマである。当時の時代背景は、どのようなものだったのだろうか。1976年、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)が結成され、1979年、養護学校義務化の年の1月、養護学校義務化阻止闘争が爆発し、当事者の「障害者」を中心に闘いぬかれている。当時、車椅子の「障害者」が交通手段を利用しようとしても、駅員ですら非協力的な者もいるといった状況であった。ドラマでは、車椅子の「身体障害者」達がいろいろな困難がある中、自分の人生を必死に生きていく。何度も何度も心が打ちのめされても仲間と共に勇気をふりしぼって外に出ていくという内容の作品であった。

 

 最後に、「如何なる差別もゆるさんぞ!」「『障害者』差別と闘うぞ!」「『精神病者』解放をかちとるぞ!」「俺たちは団結して闘うぞ!」「寄せ場春闘の勝利をかちとるぞ!」のシュプレヒコールをあげ、「団結ガンバロー」で集会を終了した。