全「障」共結成大会報告

 私たち全国「障害者」解放運動共闘会議(全「障」共)は、2013年12月22日、東京人権プラザに於いて、東北から沖縄にいたる全国各地で「障害者」解放運動を担っている多くの団体・個人と共に全「障」共結成大会を開催しました。
 結成大会は、全障連中四国ブロック幹事の西山和行さんの司会で始まり、全「障」共結成に向けて準備を進めてきた全障連東北ブロック幹事の冨山哲夫さんが開会を宣言。
 そして最初に、「『障害者』解放運動の地平と課題」と題する記念講演をして頂く予定であった全障連相談役の楠敏雄さんからのメッセージ(別掲)が読み上げられました。これは、楠さんが入院中に急に容態が悪化したことによるものです。楠さんは、その後、残念なことに2014年2月16日に逝去されました。
 続いて、結成大会に結集した各団体・個人の活動報告と決意表明(別掲)をうけ、結成宣言と規約(別掲)を採択し、全国幹事を選出しました。全国幹事には、冨山哲夫さん(仙台)、黒田憲さん(東京)、村松謙和さん(東京)、西山和行さん(大阪)、大下智之さん(広島)、山根智子さん(福岡)、大城良司さん(沖縄)が選出され、役員には、議長に冨山哲夫さん、副議長に大城良司さん、事務局長に西山和行さん、会計に黒田憲さんが就任しました。
 最後に、議長に就任した冨山哲夫さんが閉会あいさつを行ない、全体で力強くシュプレヒコールを行なって今後の闘いを闘いぬく決意を固めて結成大会は成功のうちに終了しました。

 

楠敏雄氏からのメッセージ

 容態は良くなっておりますが、どうにも、約束が果たせなくなってしまいました。残念な気持ちでいっぱいであり、また、皆さんには大変申し訳なく思っています。
 大会の成功と全「障」共の発展を、心より願っています。「障害者」解放に向けて、どうか、頑張ってください。私もあくまで共に闘いぬきます。

結成大会に結集した各団体・個人の活動報告と決意表明

反戦・反失業を闘う釜ヶ崎労働者の会
陣内二郎さん

 鈴木国男氏(デカパン)は寄せ場労働者解放と「障害者」解放を闘ってきた戦士である。
 1976年冬、鈴木氏は傷害で逮捕され、大阪拘置所に勾留された。彼は「精神病」を「発病」し、寒い冬の中、着衣を脱ぎ捨て暖房のない房内を一日中素っ裸で歩き回っていた。国家権力は外の換気を房内に流し込み放置した。さらに体温を下げる薬を注射し、2月16日の凍死へと追い込んだ。34歳という若さであった。
 鈴木氏を知っている共に闘う仲間の提起をうけ、「釜ヶ崎労働者の会」は毎年二月中旬に鈴木氏虐殺糾弾集会を開催してきた。鈴木氏の虐殺は国家権力の暴力装置である監獄内の虐殺であった。寄せ場労働者解放、「障害者」解放の戦士であった鈴木氏を国家権力は憎悪し、徹底した「精神障害者」差別によって計画的に虐殺していったのである。なぜ鈴木氏の虐殺を許してしまったのか、それは当時の寄せ場労働者運動内部の問題があったからだ。「障害」をもっていた鈴木氏を差別し孤立させ追放し彼の「病状」を悪化させた。そして鈴木氏を支えることもせず、国家権力の差別による虐殺を許していったのだ。鈴木氏の虐殺を許したことは痛苦に認め、真摯に反省しなければならない。寄せ場においてありとあらゆる差別と対決していくためには絶対に必要なことである。われわれが、寄せ場日雇い労働運動、「障害者」解放の闘いを強化する上で国家権力の鈴木氏虐殺糾弾の闘いは避けて通れないのである。
 釜日労はビラや闘争で反差別を掲げてきた。越冬のとき三角公園ではデカパンの遺影が飾ってある。はじめは大阪拘置所での死亡と出していた。私が、釜日労のメンバーにあれは虐殺ですと指摘したところ、そうです、その通りですと答えた。次の年の越冬の時には、大阪拘置所で獄死とだしていた。国家権力による鈴木氏虐殺は動かしがたい事実である。自然に死んでいったかのような、死亡でもない、獄死でもない、虐殺である。この事実さえ認めない連中の運動は信用できないし、未来もない。
 釜ヶ崎には「病者」、「障害者」をはじめ多くの被差別大衆がいる。この資本主義社会のなかで、差別され抑圧された仲間たちが寄せ場・釜ヶ崎に入ってくる。「障害者」、「病者」、在日朝鮮人・中国人、部落民、アイヌ、在日本「本土」沖縄人、外国人労働者など差別を受けている人たちである。文字も読めない、算数もできない仲間もいる。何十年にもわたって日雇い労働者としてがんばってきた仲間たちである。寄せ場日雇い労働運動は、ありとあらゆる差別を絶対に許してはならない。差別を撤廃すると言うところからはじめなければならない。これがない限り1ミリも飛躍することもできないし、前進もしない。〈一人の野垂れ死にも許さん!生きてやり返すぞ!〉のスローガンも原点である。国家権力は差別によっておれたちを分断している。この資本主義社会をぶっ潰し、本当の意味でわれわれ労働者が主人公として生き生きと生きていける社会を作るためには、いかなる差別も絶対に許してはならない。人は心で生きていくものだ。差別を受け、苦しんでいる仲間がいる。それを見てみぬふりをしていいはずがない。われわれすべてが国家権力の差別による分断攻撃を粉砕し、団結し、連帯し、闘いに起ち上がればわれわれが本当の主人公となる社会はやってくるのだ。「釜ヶ崎労働者の会」は、これからも「障害者」解放を闘う仲間と連帯し、闘う「障害者」の仲間と共に、すべての差別を撤廃させる闘いを体を張って闘っていきます。よろしくおねがいします。

 

ボランティアサークル清瀬(「身体障害者」)
川口博之さん

 清瀬で一緒にショートステイをしている仲間もいるんですけれど、清瀬とか日野とかいろいろのところで一人生活をやっております。私は、両親が具合が悪くなって一人生活をやっているんですけれど、ここに自立生活と書いてあるんですけど、なかなかそうはいかないで、大変なことがあります。今、1日おきとか2日おきに介護の人が来るんです。それじゃご飯の用意するのが面倒で食べない時もあるんです。本当は、朝と夜を入っていただいて、最低の生活を送れるようにして欲しいんですけど、なかなかそうはうまくいかず、いろいろ困っているんです。何とかして生きていかなきゃならないので、一人で工夫していろいろやってます。介護の人が来ない時は、洗面は水でやっていますけど、大変冷たくて風邪もひいております。ここに黒田さんがいるんですけれど、いろんな面で手伝ってもらっています。大変有難いと思っています。仲間をなるべくボランティアで助けていただかないとと思い、清瀬なんかでも黒田さんを中心に、あちこちビラ配りもやっているんです。けれど、なかなかうまく伝わっていかず、ビラを百枚配っても1、2枚取ってくれればいい方で、みんな、なんだこれはという顔して通行していきます。黒田さんみたいなボランティアが増えていただくと私ら「障害者」は楽になる。必要最小限の生活のうえで必要な人というか、そういうことなんです。そういうことがうまくいかず、体調をこわすことが大変多くなっています。介護の人を頼むと、「障害者自立支援法」で1割負担になっています。1割負担が大変重いというか、全部介護のほうにカネを払ってしまうと、洋服を自分で買うこともできず、有り合わせで間に合わせています。お金が足りなくなってくるような状態で、今後どうしたらいいのか私も困っております。清瀬療護園のショートステイ代も民間になるとだんだん高くなってしまうのじゃないかと思うと、清瀬療護園、日野療護園、多摩療護園、各療護園のショートステイもなかなか行きにくいし、家の中で暮らしていくのもしづらいし、もしかしたら、北海道の方に行かなきゃならないかなと思ったりもして、いろいろ考えていて、体調がすこぶる悪いんです。自立すると言うのは大変だなあとつくづく思っています。皆さんのお力で私たちを助けていただいて、こういうことがうまくいくように、全国ネットで、いや、世界ネットでよろしくお願いします。
 若輩者だからまだまだ強く言えないですが、よろしくお願いします。

 

ボランティアサークル清瀬(「精神病者」「身体障害者」)
関良徳さん

 清瀬からきました、清瀬療護園の関良徳です。僕たちは年金をもらっているんですけれど、ご飯とか、外食とか、映画とか、それぞれボランティアをやってくれる方がずいぶんたくさんいます。非常に励みになります。
 それから、清瀬療護園の居住者の方が、年金をもらって外食とか映画とか行きたくてウズウズしています。それでボランティアの募集をしています。僕も毎月毎月、清瀬の駅前に行って「清瀬療護園居住者が映画とか外食に行きたくてウズウズしています」「清瀬のボランティアに入って映画とか外食に連れて行って欲しいんですけれども、どうぞよろしくお願いします」と言ってボランティアを募集しています。これからもボランティアとして清瀬療護園に来てもらって映画とか外食を手伝ってくれる人を募集します。僕たちと一緒に募集をよろしくお願いします。

 

ボランティアサークル清瀬(「健常者」)
黒田憲さん

 こんにちは。黒田でございます。発言時間を与えられること事前に聞いてなくて、楠さんがこられたら、質問の時間に聞きたいこととかあったので、そういうことを交えながら、10分ぐらい話させてもらいます。
 ボランティアサークル清瀬というのを作って、かれこれ2年ぐらいですか、街頭でとにかく「障害者」の立場を社会化していくという趣旨に則って、駅頭で月、1回、2回くらい、多いときは3回ぐらい、街宣情宣活動をしてきました。川口君と関君二人がきてくれました。関君は、「パニック障害」という精神的な「疾病」があり、電車に乗れないという状況にあるんですが、前回、豊島園にいってから、5年ぶりに、今日、勇を起こして、清瀬からここまで2時間ちょっとかけてやってきました。
 僕の個人的な話をしますが、「障害者」運動との出会いは、小林俊彦という紛れもない解放派に属していた「障害者」がいて、鈴木ギャーさんから彼の介護を頼むと連れて行かれたのが発端です。幸い僕のうちと近かったものですから。僕の原点というか、小林がぼくに言ったこと、僕が生涯考えて続けていくテーマなんですが、小林はこんなことを言ったんです。「『健全者』とは中途半端な絶望をするよな」と僕に言うわけです。「『健全者』は中途半端な絶望をするから、簡単に死ぬよな、自殺をするよな」と僕にいうんです。職業をなくした。失業した。女にふられた。いろんな悩み事があったということで、日本でも年間3万人の人が亡くなるような時代なんですが、「自分で自分の命を絶っていくということをするよな。『障害者』は中途半端な絶望をしないよ」と僕に言ったわけです。「どんなことがあっても生きて行くぞ俺たちは。俺たちは生れ落ちた時から、ふすまの向こうで、自分を産み落としてくれた両親が、『こんな子供が生まれてきて、これから一体どうしたらいいんだ』と悲嘆にくれている。そういう現場から俺たちの人生が始まっているんだ。俺たちは親からも否定され、社会からも否定され、そういうふうに生きてきたし、これからも生きていく」ということを僕に淡々と語るわけですね。「俺たちは中途半端な絶望はしない。人間の本質的な一番深いところで絶望しているんだ。絶望というのは、諦めではない」と彼は同時に語るわけです。僕は実存主義的といったらそうなんですけど、「障害者」の存在の深さにうたれて、「障害者」運動にかかわり清瀬療護園の「障害者」施設とは30年ぐらいのかかわりになります。時間がないので手短に言いますが、全障連がいろんな状況のなかで立ち行かなくなってしまっている状況である。今日、全国「障害者」解放運動共闘会議が結成されたことは、記念すべき偉大な「障害者」運動の一歩のはじまりであり、歴史的な日であることを確認したい。「障害者」は負けないぞと言いたい。どんな風に踏みつけられ、どんな風に差別されても、のけ者にされても「障害者」は、世の中とつながりを持って、俺たちは生きていくんだという決意なんです。いつでもそうです。「障害者」が生きていける社会的インフラ、環境整備であり、基盤整備を整えていく社会運動をやらなければならない。そういうことが僕らには課せられている。行政の人間とか政治家がやるものではない。われわれ民間の人が声をあげて「障害者」と一緒に歩いていくなかで、はじめてできる。様々な「障害」が社会化され、世の中がそれを受け入れ、「障害」を持つ人とともに一緒に生きていくという社会に作り変えていく。それが俺たちの役割であり、私たちの任務である。今後ともよろしくお願いします。

 

刑法改悪阻止関東活動者会議
村松謙和さん

 刑法改悪阻止関東活動者会議の村松です。最初に先日なくなられた、安井健彦氏の追悼文(別掲)を読み上げます。
 〔追悼文朗読〕
 簡単に私のお話をします。私は、「脅迫神経症」の「躁鬱病」という病名のれっきとした「精神障害者」です。こうした中で28年間、福祉施設で働き、「知的障害者」のケアをしてきました。現在は、山谷で生活しています。山谷には、現社会不適応として、差別、除外されたひとたちがたくさんいます。わたしは特に「病者」の通院援助、生活保護法受給のための援助を行なっています。私が行なっていることは、本来、行政や施設職員がやるべきことです。私が本当にやらなければならないことは山谷の中の「障害」を持つ仲間、「病気」のなかまと闘う団結を作り、差別糾弾闘争に決起して闘うことだと思います。安倍政府は急激に、朝鮮反革命戦争に打って出ようとしています。これまで、戦争時、「有事」の際には、「病者」「障害者」は役に立たないものとして虐殺されてきました。だからこそ、私は、「病者」「障害者」とともに「障害者」解放闘争に起ちあがり、反戦闘争を闘うことが必要だと思っています。ともに闘っていきましょう。

 

「障害者」への公的介護保障を求める会(仙台)
大友重光さん

 (「身体障害者」である)私はこれまで赤堀差別裁判糾弾闘争に参加し、赤堀さんとの面会活動などを行ってきました。また、地域では「障害者」の交通問題にも取り組んできました。
 2006年の「障害者自立支援法」完全実施により、介護支給が大幅に削減されましたが、それ以降、名取市行政に対して抗議行動や交渉を行い、削減前の介護支給量に近い時間をかちりました。
 「支援費制度」は「障害者」の自立生活を阻むものです。撤廃しなければなりません。〈自立と解放〉に向けて共に頑張りましょう。

 

香川のまんのう裁判を支援する「健常者」の仲間
松田修二さん

 多田羅洋介さんは、現在33歳、重度の「知的障害者」です。彼は身体的にはいろいろ病気をしておりますが、表面的にはげんきな「障害者」です。しゃべりません。なかなか意思が伝わらないというか、本人は日本語を若干は理解しておりますが、自分の意思が通らないときに、暴力的に手が出たり、他人を叩いたり、物を壊したりすることがあります。結構ガラスなどがポンポン割れるし、電化製品もすぐ壊れてきます。壁を叩いて、壁が落ちたり、自分の意思表示として大便やおしっこを畳の上でしたり、床の上でしたりしますので、畳も、床もぼろぼろです。それでもなおかつ、自分の意思を通している。回りの介護者も彼の意思を尊重しているという形だ。結構大変だが、できるだけそういうような形で、努力している。しゃべれなくても、自己決定ということで、介護者としては大変だが、そういう風にやっていくということで、会議を持ったり、いろいろ話し合ったりして、「障害者」の自己選択、自己決定を尊重していくという介護を追及している。
 多田羅洋介さんは、7年~8年前に親元から、独立して、まんのう町役場あたりにアパートを借りて福祉サービス―かつては350時間あった―を駆使して自立生活を初めて、現在8年目か7年目に入っている。数年前から、福祉サービスの時間数を増やせとまんのう町に対しては、不服申し立て、香川県に対しては審査請求というかたちで何度もやってきたが、なかなか通らない。それで、昨年の2月23日に、行政訴訟という形で、弁護士が見つからなかったので、本人提訴という形で提訴して、その後、介護保障の詳しい弁護士についてもらって、現在10人ぐらいで、福祉サービスを増やせと要求している。要求の中味は1日、24時間体制、なおかつ、一部は2人体制で月900何時間だったと思うが、支援事業所でプランを立ててもらって、やっている。
 7回ぐらいの裁判をやって、来年4月に次回があります。単純に時間数を増やせと要求しても、なかなか説得力がない。最大のポイントは、本人が自立生活を望んでいるのか、本人が現在の地域での生活を望んでいるのか、あるいは、本人は意思があるのか。本人がしゃべらないだけに、しゃべらない「知的障害者」にたいして、選択権、決定権というところが、今後、裁判の中で争われていくのかなと思っております。毎回、傍聴にたくさん来ていただいております。大法廷が毎回満席になるぐらい、全国からも来ていただいている。それだけ、「知的障害者」の自己決定、自己選択そういうものが、注目されている。やっぱり難しいけれど、そういう「障害者」の権利が守られないんだ。とにかくこの裁判を通して「障害者」、あるいは「知的障害者」の権利を社会に対して認めさせるというかそういうのをやって行きたい。
 まとまりませんでしたが以上です。

 

広島県「障害者」解放を進める会(「身体障害者」)
大下智行さん

 結集された皆さん。「広島県『障害者』解放を進める会」から決意の表明を行ないます。安倍極右政府が戦争政策を遂行しようとしており、これを許してしまえば、「障害者」にとっても暗い時代が待っています。ナチス・ドイツの「障害者」抹殺攻撃に見られるように、「障害者」の生存すら許さない攻撃がかけられようとしているのです。安倍政府は、「国家安全保障会議(日本版NSC)設置法」や「特定秘密保護法」の成立を強行しました。さらに、「共謀罪」の新設や、「集団的自衛権の行使」を狙っています。こうした安倍政府のやり方は許せません。安倍政府の戦争政策と対決し、全国の仲間と共に広島の地で「障害者」運動の飛躍をかちとるべく闘います。
 以上です。

 

天皇上陸阻止沖縄青年実行委員会
大城良司さん

 集まっていただいたみなさん、大変ご苦労様です。天皇上陸阻止沖縄青年実行委員会の大城です。私は、「強迫性障害」という「病気」を20代のころから20数年間も患っています。私の弟も「統合失調症」と診断されて、20年以上病院に入院しています。沖縄の社会の私は、基地を解体すると同時に、今の沖縄の既存の社会そのものを解体しなければいけないと思っています。沖縄社会はいいところだとか、南国の楽園だとか、まったく差別をしない人だとか、優しい人だとか、そういった歪んだ印象をマスコミが映画やテレビなどを通して日本「本土」の方々に描き出しているということを非常に腹立たしく思います。日本「本土」の差別と基本的にまったく同じで、差別意識はまったく変わりません。
 私個人は、沖縄の人間として沖縄の解放ということを言いますけれども、「障害者」差別をよしとするような沖縄社会のための解放運動をやっているのではありません。既存の今の沖縄社会も解体してしまわないといけないと自分は考えております。「障害者」を差別視しない、「障害者」をごく一般的な人間として見る感性を取り戻すことが本当の沖縄の解放だというふうに私は考えております。基地を解体するといっている人たちのなかにも、「障害者」を差別する気持ちがあるのであり、その気持ちというのは、支配階級、帝国主義者、天皇主義者たちと何も変わらない。そういった意識を解体する、そういった意味での沖縄解体。今の沖縄の社会そのものを解体してしまわない限りは、沖縄の本当の意味での解放というのは、なしえないだろうと思います。私は、既存のブルジョア社会の一員としてある沖縄社会の解体というのを提起して、そういった運動をやっているつもりです。私は、日本「本土」の「身体障害者」、「精神障害者」の方々との共闘を通じて、運動をやって行きたいと考えております。「ユイマール」という言葉に表現されるように、沖縄の社会は、相互扶助の地域共同体の強い、助け合いの強い社会だというように宣伝されてされていますが、それはあくまでも「身体障害者」、あるいは「精神障害者」を除外した上で成り立っている地域共同体社会、沖縄共同体社会であり、そういう風に考えていただければまちがいないと思います。それは本当の意味での共同社会ではなく、共生社会でもなく、体にハンディを負っている、心にハンディを負っている、ハンディという言い方自体が不適切かも知れないけれど、そういった不自由さを抱えている人たちを除外した上での共同社会、共生社会というのは、私はありえないと思っております。私は、沖縄の解放とは、ブルジョア社会の一員としてある沖縄社会の解体を進めていく上での沖縄の解放だという風に考えております。話が長くなりますのでこのあたりで話を終わらせたいと思います。どうもありがとうございました。

 

 

安井健彦氏を追悼する

宇都宮病院糾弾闘争で檄を飛ばす安井氏
宇都宮病院糾弾闘争で檄を飛ばす安井氏

 11月23日、報徳会宇都宮病院(宇都宮病院)の元入院患者であり、「宇都宮病院事件」の告発者である安井健彦氏が、虚血性心不全により、東京都目黒区内の自宅において逝去されました。1933年、岐阜県中津川市生まれ。享年80歳でした。
 「入院患者と連帯し宇都宮病院を糾弾し解体する会」のメンバーが11月10日に会ったのが、われわれとの最後となりました。その日も安井氏は、「石川文之進(当時の病院長・理事長)だけは絶対に許さない」と語っておられました。まさに、死の直前まで闘い続けた人でありました。
 安井氏は、1978年から1983年まで、「5年3ヵ月10日と2時間」(安井氏)にわたり、宇都宮病院に隔離・収容されました。そこで強いられた氏の過酷な体験や、石川らによる入院患者に対する虐待の実態は、氏の著作「悪魔の精神病棟―報徳会宇都宮病院」に詳しく述べられています。この病院で氏は、2人の入院患者の暴行・虐殺の事実をつかみます。一人は「飯がまずい」と言っただけで、もう一人は面会に来た家族に「ひどい病院だから早く退院させてくれ」と訴えただけで、看護人らから鉄パイプや木刀で暴行され、虐殺されたのです。
 退院後の1984年3月、安井氏はこの事実を暴露しました。その命がけの告発は、日本はもとより世界的にも衝撃を与え、政府にも、「精神衛生法」を「精神保健福祉法」に代えざるを得ないほどの影響をもたらしました。われわれは、氏の闘いを力に、共に宇都宮病院を糾弾し解体する闘い、「精神衛生法」―「精神保健福祉法」下の精神医療と差別を糾弾し、「精神障害者」解放を切り拓く闘いを続けてきました。
 安井氏は、宇都宮病院で受けた暴行による後遺症に悩まされながらも、体調の許す限り闘争に参加しては、宇都宮病院の実態、今日の精神医療の実態をくり返し暴露し、われわれに熱い檄を発していました。宇都宮病院が患者集めのために山谷労働者を刈り込んで、勝手に「精神病」と診断し入院させていた事実についても、怒りを込めて暴露していました。氏のその姿に共感し、決起した山谷労働者も多くいます。
 今年7月、東京・小平市で行なわれた「心神喪失者等医療観察法」施行八ヵ年糾弾―対国立精神・神経医療研究センター(旧武蔵病院)闘争にも駆けつけてくれました。同月の宇都宮病院糾弾闘争では、「宇都宮病院が何で今も続いているのか。その理由は三つある。一つは社会がいまだに容認していること! 二つにカネの力! 最後に警察だ! このようなことを許している限り、宇都宮病院はいつまでも続く。こんなことが通用するかってんだ! みんな頑張ってくれ。一人でも頑張ってくれ」と参加者に熱く呼びかけ、集会とデモを共に闘いました。
 安井氏は、全国「障害者」解放運動共闘会議に結集する意思を表明していました。結成大会を目前にしての逝去は、本当に残念でなりません。心から哀悼の意を表するとともに、氏の遺志を引き継ぎ、その怒りと闘いに応え、宇都宮病院を解体するまで、「障害者」解放の日まで闘いぬいていくことを決意し、追悼とします。

2013年12月22日

 刑法改悪阻止関東活動者会議