一脳性マヒ者が歩んできた道

~地域で共に生きることをめざして~

利光 徹(福岡「障害者」解放をめざす会会員)

 

 

 ここに掲載する文章は、2015年4~5月に、「福岡・『障害者』解放をめざす会」が3回にわたって行なった新入生歓迎企画での利光氏のトークをまとめ、さらに本人からの聞き取りに基づいて、加筆したものです。

 

一、はじめに

 

 私が障害者解放運動に関わってから今年で41年、自立生活を始めてから33年になります。私のようなか弱い人間を成長させてくれたのは、皮肉なことに、差別の実感でした。「こんなことに負けてたまるか」という闘争心でした。

 今回は、これまでの私の人生を振り返りながら、その中で考えてきたこと、めざしてきたことを、皆さんにお話しします。

 

 

二、施設や親元で過ごした日々のこと

 

私の生い立ち

 

 私は、1956年10月15日、大分の田舎町で3人兄弟の末っ子として誕生しました。生後7ヵ月の時に、原因不明の高熱に侵され、生死の境をさまようことになりました。かろうじて命は助かったものの、その後遺症で「重度」の「脳性マヒ」になりました。

 その後は、親の転勤の関係で、東京や九州、山口などをあちこち移り住むことになります。1966年6月から69年3月まで、年齢で言うと9歳から12歳までの3年弱は、東京都北区にある「都立北療育園」という施設で過ごしました。

 それから福岡に移った親の元で半年過ごした後、「福岡県立肢体不自由児療護施設・新光園」という施設に入りました。「ベッドに空きができたという通知が来たから行くように」と親に言われたからです。「赤紙召集」で入隊するようなもので、暗い気分で行きました。そこには、1969年9月から70年12月まで(12歳から14歳まで)の約1年半、入っていました。

 さらに大分に移って、親元から「大分県立別府養護学校」の中等部2年のクラスに通い始めたのは、1971年4月のことです。今で言う「特別支援学校」です。しかし半年ほどで登校拒否になり、引きこもりの生活に入りました。「何を目的に生きていけばいいのか…」、「どうやって生きていけばいいのか…」。まったく先が見えない深い闇の中で、悶え苦しんだ2年半でした。

 引きこもりから抜け出たのは、親とともに福岡に移り住んだ1974年、私が18歳の時でした。「新光園」時代の先輩から、「新しくグループを作ったから、お前も出て来い」と呼ばれたからです。それが、人生の大きな分岐点になりました。

 

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 それからというもの、自分の生活環境も、自分自身の考えそのものも、日に日に変わっていきました。様々な経験や出会いによって、差別の現実を知り、人生の目的を知り、障害者解放運動にのめり込んでいきました。どちらかと言うと、引きずり込まれていったと言った方が、正確かも知れませんが。

 1977年5月、20歳で「青い芝の会」に参加。1983年2月、26歳で福岡市内にアパートを借り、自立生活を開始。1990年12月、33歳の時に、同じ「重度」の「脳性マヒ」の障害をもつ妻と結婚。すぐに子どもができましたが、その息子も今は24歳になって、すでに大学を卒業し、就職しています。

 18歳で活動に参加してからと言うもの、私は親とも周囲とも、トコトンやり合って生きてきました。どんなに周りから「危ないからやめておけ」とか、「人の邪魔になるからやるな」とか言われようが、やりたいこと、やるべきだと考えたことは、全部やってきました。

 今年で五九歳になりますが、悔いのない人生だったと思っています。

 

脳性マヒを治療する???

 

 ここで、子どもの頃の私の体験をいくつか紹介しておきたいと思います。

 さきほど、「3人兄弟の末っ子」という話をしましたが、兄弟と言っても、上は姉が2人でしたから、私は長男ということになります。私が生まれて、親は「ようやく跡取りができた」と喜んだそうです。その意味で私は、親の期待を一身に受けていました。

 ところが原因不明の高熱。医者からは「諦めて下さい」と、死亡宣告に近いことまで言われたそうです。私は今、その時に一度死んだと考えています。今こうして生きていること自身、「第二の人生」です。ですから、「どうせ拾った命。だったら好きなように生きよう」と考えているわけです。

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 けれども、親はそうではありませんでした。「跡取り息子への期待」を諦め切れませんでした。ですから、「脳性マヒを治す」ために、あちこちの病院に入れては、必死になってあれこれ治療を試みたわけです。

 「東京なら、まともな治療が受けられるはずだ」。そう考えた父親が転勤を希望して移り住んだ東京で、私が最初に受けたのは、「パンピング注射」というものでした。場所は慈恵医大です。3歳後半の頃のことでした。

 看護師が5~6人がかりで私の体をエビのように無理やり丸めて、脊髄に太い注射針を打ち込むというものです。脊髄に注入するのは、薬ではありません。ただの空気です。空気を注入することで脳を刺激するという、およそ信じられないような治療法でした。それは猛烈な痛さでした。多分、今みなさんがそれをやられたら、気を失うのではないでしょうか。この「荒療治」を毎週1回、約1年間にもわたってやらされました。

 ところが、人の体というのはよくできたもので、そのうちに、私に拒絶反応が出るようになりました。注射をする日の朝になると、なぜか決まって熱が出るのです。発熱すると注射はできないので、親も医者も、この方法を諦めざるをえなくなりました。私の泣き叫ぶ声に、親が耐え切れなくなったという事情もあったようです。

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 5歳から6歳にかけての頃には、順天堂大病院で、頭蓋骨に穴をあけて脳を開き、そこに電極を差し込んで電気刺激を加えるという手術も受けました。今でも頭のてっぺんに、その手術の跡が残っています。今ではいくら何でもこんなことはしませんが、当時は治療と称して、こんなことまでやっていたのです。体(てい)のいい人体実験だったと私は思います。

 そんなこんなで、「お前の治療のために、土地付きの家が一軒建つくらいの費用をかけた」と、父親は言っていました。そんな無駄なことにカネを使わずに、そっくり私に残しておいてくれれば、もっと楽しく有効な活用方法が他にいくらでもあったのになあと、つくづく思うのですが。

 

脳性マヒも訓練すれば治る???

 

 9歳から12歳まで過ごした東京の「北療育園」という施設は、朝6時に起床で、朝食は7時。食事に時間がかかって時間内に食べ切れない人は、全部片づけられてしまっていました。

 そして、9時くらいから「機能回復訓練」。要するに、動かない体を無理やり動かす、動くようにするという訓練です。

 昔は、「脳性マヒも訓練をすれば治る」という言われ方をしていました。ただし、実際に回復した例は、ほとんどありません。健全者が、交通事故や大手術の後に受けるリハビリとは、わけが違うのです。訓練の結果、一瞬だけは動くようになったと思うけれども、体に無理をさせたせいで、その後は逆に早く状態が悪化していく。私の体験から言っても、先輩たちの話を聞いても、これは確かなことです。今は、訓練のやり方も違うとは思いますが、当時は、本人の意向はまったく無視されていました。

 そこには、「訓練士」と言われる人がいました。私たちは、その人のことを「先生」と呼ばされていて、「先生の言う通りにやりなさい」、「できないことでもやりなさい」と言われていました。「やればできるんだから、やりなさい」、「できないんだったら、それは怠けているからだ」とも言われました。午前中約2時間と、午後も約2時間、一日のうち計4時間は、そういう痛い思いをしないといけませんでした。

 食事の時間が短いことも驚きましたが、さらにびっくりしたのは、消灯時間の早いこと早いこと。だいたい4時には夕食になるのです。そして5時には職員が帰って行きました。私がいた第一病棟には、日勤の看護師がだいたい6~7人です。そして夜勤が3人。それから、昼から夜までの遅出の人が1人、朝早くから来て午後には帰るという早出の職員が1人か2人。その体制で、60人から70人の入所者を相手にするのです。

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 入浴は週に2回で、小学校高学年以上は、午後3時から4時までの間でした。だから、夕食までの間に、30人くらいを集めて一斉に入浴させるのです。よく野菜を洗う時に、流しで一個ずつではなくて、まとめて洗いますよね。あんな感じです。まさに「野菜の泥落とし」です。

 「軽度」の入所者は、優先的に先に入っていくのですが、「重度」の入所者には職員がつきました。体制は、入所者を湯船につける役が1人、中の洗い場で体を洗う役が2人、脱衣場で着替えをさせる役が2人、大体そのようなものでした。入所者を湯船に入れたら、洗い場へ、そして脱衣場で着替えをさせて、すぐに車イスに乗せていく。この作業を次から次へとやっていくわけです。

 全員を1時間以内にやらないといけないわけですから、本当にバタバタです。やられる方としては、到底、お風呂に入っているという気分ではありません。ほとんど戦争でした。

 湯船につかる時、私のような「重度」の者は沈んでしまうので、「軽度」の入所者がもう1人、サポートでつきました。しかし、何度か溺れかけました。とりわけ私は、頭を洗うというのが大変に苦手でした。頭からザバザバとお湯をかけられると、口からも鼻からもお湯が入ってしまって、息ができないのです。息ができないのは、苦手と言うより怖かったというのが、正直なところです。

 しかし、こういう中でも、私は、ほとんど文句を言わずに、職員の前では「よい子」として振る舞い続けていました。当時の私は、職員に気に入られること、職員を味方につけることに懸命になっていたのです。

 

チョコとキャラメル

 

 「北療育園」に入って一番ショックだったのは、入所している同じ障害者同士でも、イジメがあったことです。とてもつらく悲しい思いをしました。

 そこには、「軽度」の障害をもつイジメっ子がいて、相手が気にくわないと、すぐに松葉杖を振り回して叩いていました。私もやられたし、他の子もやられていました。

 やり返したいと思うのですが、「重度」の自分1人では、どうやってもかないません。私が考えたのは、仲間を集めるということでした。

 問題は、どうやって仲間を集めるか? 1人や2人集めただけでは勝てません。「返り討ち」にあうだけです。何人もの仲間が必要でした。けれども、「話し合いをしたい」と言うだけでは、なかなか人は集まりません。それは、大人の世界も子どもの世界も一緒です。

 そこで考えたのは、3時のおやつに出る「チロルチョコ」や「サイコロキャラメル」などのお菓子を食べずに貯めておくことでした。他の子がすぐに食べてしまうのを、自分だけは、ずっと我慢して貯めました。

 ある程度貯まったら、目星をつけていた子にそれを渡して集まりに誘う。あるいは人が集まったらそれを出す。お菓子があれば、集まりが楽しみになってくる。普段なら聞いてもらえない話でも、少しは聞いてもらえる。そして話が弾む。そのうちに、「俺もあいつにやられた」、「復讐したい」という声が出てくるようになって、最後は、全員で「やろう」ということになりました。

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 「重度」の障害者が「軽度」の障害者に勝つためには、かなりの作戦が必要になります。「どこでやるか」を下調べしました。職員が見回りに来ない時間帯も慎重に調べました。相手の偵察、職員対策用の見張り、そして実行部隊など、それぞれの役割分担も決めました。

 そして決行。まず無人の車イスで通路をふさぐ。相手がそこを通るためには、「武器」の松葉杖をどこかに立てかけて、車イスをどけなければなりません。やつが「武器」を放した瞬間が勝負です。一人が松葉杖を奪ってその場から離れる。そこを実行部隊の4人が一斉に取り囲んで、ボコボコにしました。

 「どうだ、思い知ったか!」。

 その時は、相手が「もう杖で殴らない」、「イジメはしない」と約束するまで、徹底的にやりました。

 こういう負けん気と悪知恵は、この頃に身につけたものだと思います。

 

カーテン越しのベトナム反戦闘争

 

 余談になりますが、この「北療育園」である時期、毎週土曜日になると、ただでさえ早い夕食の時刻がさらに早くなって、午後3時になることがありました。そして、4時にはカーテンを全部閉め切ってしまうのです。1968年、私が11歳の頃でした。

 「北療育園」というのは、「キャンプ王子」という米軍基地の中にありました。基地の敷地の一部が返還されて、そこに施設が建てられていたのです。当時、この「キャンプ王子」の中に、ベトナム戦争で負傷した米兵のための病院を開設するという話が持ち上がり、地元を中心に、大きな反対運動が起きていました。いわゆる「王子野戦病院反対闘争」です。衝突は、私たちのいる施設の目と鼻の先で行なわれていました。

 土曜日の夕方になると、外がやたらと騒々しくなるので、私たち入所者は、職員の目を盗んではカーテンをめくって、窓から外の様子を見ていました。労働者やヘルメット姿の学生たちがデモをしたり、機動隊と激しくぶつかっている光景が見えました。催涙弾や投石も、しょっちゅう飛び交っていました。

 子ども心にも、「何が起こっているのか」、「今日はどうなったのか」が、とても気になりました。窓から見ただけではよく分からないので、翌日のテレビや新聞にかじりついて見たりもしました。「三派系全学連」という言葉も、その時に覚えました。意味は分かりませんでしたが。

 

こんなものは教育じゃない

 

 12歳から14歳まで入っていた福岡の「新光園」という施設は、どちらかというと、一時入所型の施設形態をとっており、交通事故の後遺症の人とか、あるいは「軽度」の「脳性マヒ」とか「ポリオ」とかの人が多かったので、私より「重度」の人は何人もいませんでした。

 私は、そこの6年生のクラスに編入されたのですが、それが不幸の始まりでした。

 東京と福岡では、障害児教育の仕方が、何から何までまったく違うのです。授業の進度も内容も全然違うのです。「北療育園」で受けた教育は、せいぜい小学校2年生くらいの水準ではなかったかと思います。ところが「新光園」では、「軽度」の子に合わせて、六年生には、普通学校の6年生とほとんど変わらないような教育をやっていました。

 私にとってはまさに、2年生がいきなり六年生の授業に放り込まれたようなものでした。社会と理科はかろうじて分かりましたが、それ以外はさっぱりでした。「北療育園」にいた頃は、自分でも「できる方だ」と思っていたのですが、ここでは一転して、「劣等生」になってしまいました。

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 それ以上に私のやる気を奪ったのが、Kという若い教師でした。私は、一番前の席だったので、その教師からよく指されたのですが、私が「分かりません」と答えると、そのたびに「こんなことも分からんのか!」と、ゲンコツで頭をゴツンと殴られました。他の人はともかく、私にとっては、まだ全然教えてもらっていないことなのに。

 その教師は、学級文集のようなものを作って、週に一回発行していましたが、その名も「ゲンコツ・クラブ」。本当の話です。子どもの頭を殴ることを売り物にしているような教師でした。今なら当然、「児童虐待」で訴えられているところです。

 「こんなものは教育じゃない。いつか報復してやる」と思いながら、日々を過ごしました。その教師は早くに亡くなったので、もはや報復することもできなくなってしまいましたが。

 

施設に対する初めての闘争

 

 職員との闘争まがいのことを初めて経験したのも、この「新光園」でした。学年で言うと、私が中学1年の時でした。きっかけは、入所者の個人用のロッカーが荒らされることでした。

 私がいた第一病棟には、幼稚園児も一緒に入っていました。入所者も中学生にもなると、それがどんな物であれ、本人にとっては貴重品と言うべき物が増えてくるのですが、そういう物をロッカーに入れておくと、ちびっ子たちがいたずらをして、ガチャガチャにしてしまうのです。当時、ロッカーのカギは職員が管理しており、昼間はカギがかかっていない状態でした。

 Nという先輩が「こんなことが許せるか!」と激怒して、施設側に対して「カギを自分たちに渡せ」という要求闘争を始めました。たまたまその先輩とベッドが隣同士だった私も、「一緒に闘え」と言われて、軽い気持ちでそれに付き合いました。

 施設側とは何回か話し合いを持ったのですが、「君たちに管理はできないんだから、渡せない」と施設側が主張したため、大ゲンカのような状態になりました。最終的にカギを手にすることはできたのですが、その後が最悪でした。私が「騒ぎの首謀者」にされて、親が呼び出されることになりました。職員たちから目を付けられ、嫌がらせを受けることにもなりました。

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 この「新光園」にも、入所者同士の差別やイジメがありました。第二病棟には「軽度」の障害者が入っていて、第一病棟の私たち「重度」の者を見下し、ことあるごとに差別していました。「やられたらやり返す」というのが私の流儀でしたので、例のごとく「夜襲」をかけました。「新光園」で楽しかった思い出と言えば、それくらいのものです。

 24時間を管理され拘束される生活。意味のない「機能回復訓練」。ゲンコツが降る授業。職員による嫌がらせ。そして入所者同士の差別。そのような暮らしの中で、私はすっかり施設というものが嫌になっていきました。「もう絶対に施設には入らない」という気持ちが強くなっていきました。

 「新光園」に入ったことに意味があったとすれば、それはただ一つ。その後の私の人生に大きな影響を与えてくれた先輩や同僚たちに出会えたことです。

 

登校拒否と引きこもりの日々

 

 「別府養護学校」の中等部2年には、1971年の4月から通いました。14歳の時です。大分の親元から、母親に車イスを押されて通いました。しかし母親の仕事は、送り迎えだけではありません。登校してから下校するまで、ずっと学校にいなければなりませんでした。

 どうしてかというと、当時の養護学校は、「軽度」の障害児を対象にしたもので、「重度」の障害児は、「就学猶予」とか「就学免除」とかの名目で、ずっと家や施設に閉じ込められて、勉強の機会さえ与えられない時代でした。自分で歩くことができて、身の回りのことも自分でできること。それが養護学校入学の前提であり、それができない人の場合には、「親が付き添うこと」が入学の条件になっていたのです。

 「重度」の障害児が養護学校に行く方がおかしいと言われるような時代でした。実際この学校でも、「重度」は私一人だけでした。ですから、学校内での私のトイレも、授業中にノートをとるのも、すべて母親がやっていました。

 「それで養護学校と言えるのか?」、「それで障害者施設と言えるのか?」と思われる方も多いと思います。しかし、「重度」の障害児が、それなりの体制、それなりの設備をもった所で教育を受けられるようになるには、1979年の「養護学校義務化」を待たなければなりませんでした。

 ただし、この「義務化」は同時に、「重度」「軽度」を問わず、障害児の普通学校からの排除を、強力に進めるものでもありました。

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 本当はもともと、養護学校には行く気がしませんでした。「新光園」での経験で、勉強というものにすっかり懲りていたからです。幼い頃から天文や物理に興味があったので、天文学者になることを夢見たこともありました。しかしその夢も、数学がすっかり苦手になってしまった「新光園」時代に、粉々に打ち砕かれていました。

 この頃には、数学と英語を除けば、ある程度は授業の内容も理解できるようにはなっていたのですが、「障害者の自分が勉強したところで、いったい何になるというのか? 何の役に立つのか?」と考えると、何もかもが空しくなってしまっていたのです。

 その年の夏休みが終わって2日間登校した後、体調を崩して一週間ほど休んだ時に、それまで我慢して溜め込んでいたものが、一気に吹き出しました。

 「もう行きたくない」。それからずっと不登校になりました。それでも卒業証書だけは、なぜかちゃんとくれました。だから一応、中学を卒業したことにはなっています。

 

死ぬ時はお前も連れて行く

 

 両親と最初に衝突したのは16歳になった頃からで、自分の生き方、自分の将来についてのことでした。

 当時の私は、不登校ですから、当然のことながら家にいました。そうすると、話す相手が両親しかいないわけです。すると親から、特に親父から、「おまえはこれからどうやって生きていくつもりなのか?」と言われるわけです。私自身、そのことで朝から晩まで悩んでいた時でしたから、親からそう言われると、余計にきついわけです。

 障害児を持つ親はたいてい言うのですが、うちの親も、「とにかく親の言うことを聞いておけばいいんだ」、「そうしたらお前が欲しい物は、お父さんたちが何でも買ってきてやる」と言っていました。「そんなものは要らん。自分で買いに行きたい」と言うと、今度は、「お前がどうやって買いに行くんか、誰が連れていくんか?」、「今は、お父さんたちが連れて行けるけど、連れていけなくなったら、お前はどうするのか?」となるのです(実際には、一度も連れて行ってもらったことはなかったのですが!)。

 何の話をしていても、最後は結局、「将来どうやって生きていくのか」という話になり、話すたびにもめていました。

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 私にとって一番衝撃だったのが、16歳の夏です。ちょうどお盆の頃だったか、とにかく暑い時期でした。

 昼飯を食べていた時に、「おい、徹」と、親父からいつものような話が始まりました。私が「もういいじゃないか。俺は自分で生きたいように生きるから、少し黙っててくれ」と言ったところ、父親が「お前が言うことは言うことで聞いてやる。でも最終的には、自分たちが死ぬ時は、お前を一緒に連れて行く」と言いました。

 最初は何を言っているのか、全然分かりませんでした。意味が分からなくて、もう一度聞き直しました。「連れて行くって、どこへ連れて行くんか?」。

 「お前は施設にも行かないって言うし、行かなかったら、お父さんたちはお前だけを残して死ぬことはできない。だから死ぬ時は、お前を殺して一緒に連れて行く」。父親がそう言いました。これは本当に衝撃でした。頭を殴られたような衝撃でした。その言葉は、今でも頭から離れません。それまでにも、「親子心中」とか「障害児殺し」とかの話は、テレビや新聞で報道があって、一応は知っていました。しかし、まさか自分の親がそんなことを言うとは、想像もしていませんでした。

 それ以降というもの、親との同居生活は、「このままだと、いつ自分の首を絞められるか分からん」という恐怖心との同居でもありました。「やられるか、やられる前にこっちがやるか、どっちかだ」と、本気で考えたりもしました。

 そして、親のそういう考えは、結局、私が家の中にいるから起こるんだろうと思い、何とか家から出ようと、真剣に方策を考えるようになりました。しかし、45、6年も前のことで、「自立」という言葉すらないような時代ですから、家を出るために自分で何をやったらいいのか、さっぱり頭に浮かんでこないというのが正直なところでした。そこからどんどん変わっていくというのが、人生の面白いところですけど。

 

 

三、障害者として生きるということ

 

障害者であって何が悪いのか

 

 私は、「脳性マヒ」という障害を持って生きてきました。今は、障害者として生きていることに何の違和感もなく、逆に障害者であることを誇りとして生きていますが、やはりそこに至るまでには、色々な葛藤がありました。

 それはなぜかと言うと、自分の親や兄弟を含めて周りの社会が、障害があるということに対して、ものすごく否定的だったからです。物心がついてからというもの、「お前は障害があるからダメな人間だ」とか、「お前が行ったら人の邪魔になるから行くな」とか、あるいは「障害を治すことがお前のためだ」とかということを、ずっと周りから言われて育ってきたので、自分の障害というものを肯定的に受け止めることが、なかなかできませんでした。

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 ですから、10代の後半、皆さんで言うとだいたい中学生から高校生ぐらいの年齢の頃は、ものすごく葛藤し、悩み苦しんでいました。「15、16、17と、私の人生、暗かった」という藤圭子の歌がありますが、ちょうどその15歳から17歳の頃の私は、暗いというより、真っ暗闇の中で生きていました。今でいう登校拒否、引きこもりです。

 苦しかったのは、「先がまったく見えない」ということです。「何をして生きていくのか」―自分の生きる目的が、さっぱり分かりません。「どうやって生きていくか」―生きていく方策も、全然見つかりません。

 大分にも作業所のような所はすでにありました。しかし「軽度」の人が対象で、「重度」の人は、入ることすらできませんでした。大分の田舎にいると、「地域で生きる」なんて発想は、どこからも出て来ようがありませんでした。

 二度と施設には行きたくない。だとすれば、残る選択肢は家で暮らすことしかないのか。でも、何の目的もなく生かされるだけの生活には、とても耐えられない。だったら親元を離れて一人で生きていくしかない。しかしその方法は? …ない。やっぱり施設に行くしかないのか…。

 毎日、毎日、朝、目が覚めてから夜寝るまでの間、ずっとそんなことばかり考えていました。しかし、どんなに考えても「堂々巡り」になるだけで、何も答えが出てきません。考えても、考えても先が見えず、ひたすら悶々とする日々でした。

 同時に、「もし自分に障害がなかったら、あれもできたはずだ、これもできたはずだ」という、どうしようもなく悔しい思いが、ことあるごとに浮かんでは私を苦しめました。「何で自分がこうならなければならなかったのか」という自分の運命に対するやり場のない怒りと言うか、嘆きの気持ちと、「どんなに嘆いたって、どうなるものでもない。受け止めるしかない」という気持ちとが、せめぎ合っていました。

 ですから、その当時は、自分の中にある差別心ということにも、まったく気づいていませんでした。

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 それがどうして変わったのか? それには様々な経験や、様々な人との出会いがありました。

 それがどう変わったのか? 一言で言うと、「障害者であって何が悪いのか」ということです。「障害を持っているからといって、何も自分が悪いということではないんだ」ということです。障害を持っていることが問題なのではなくて、障害を理由に社会から排除していくこと、本当はそのことが問題なのだということです。

 次は、それについてお話しします。

 

一七歳で迎えた人生の分かれ目

 

 私が引きこもりから抜け出たのは、「新光園」時代の先輩からかかってきた電話がきっかけでした。1974年、18歳の時のことです。「今度、『立ち上がろう会』というグループを福岡で新しく作ったから、お前も出て来い」というものです。しつこく誘われたので、「顔を出すだけ出してみようか」という気になりました。

 初めて出たのは、年末の「クリスマス会」でした。しかし2年半の間、親以外とは誰とも話さなかったわけですから、当時の私は、ほとんど「対人恐怖症」のようになっていて、終始、緊張しまくっていたことを覚えています。その場に居ただけで、誰ともしゃべることができませんでした。緊張のあまり、行き帰りを含めた約20時間のあいだ、トイレにも一度も行きませんでした。

 「この会に出るのは、これで終わりにしよう」。そう思っていたら、今度は、「新年会もやるから来い」と言われました。もう行くつもりはなかったのですが、その日になったら、学生が私の家まで迎えにやって来て、結局、連れ出されてしまいました。

 今思えば、それが人生の分かれ目でした。

 

これが障害者に対する現実なのか

 

 「立ち上がろう会」は、月に一回、例会をやるだけの親睦会のようなものでした。九大の学生などの協力を得ながら、レクリエーションのようなこともやっていました。活動といっても、最初は何をしていいやらよく分からず、ただグチを言い合っているような状態でした。

 そうすると、外界と接触する機会が増えてきます。今まで体験してこなかったようなことを次から次へと体験することになるわけです。例えば、バス停で私たちが待っていても、バスが乗車口を開けずにそのまま通過していく。そんなことが何回もありました。いわゆる乗車拒否です。今だと、私たちがバスに乗ろうとすると、運転手が降りて来てスロープを出して乗せますが、当時はそんなことはありませんでした。

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 こんなこともありました。例会の後、「喫茶店に行こうか」ということになって、みんなで店に入ろうとすると、「ここは車イスでの入店はお断りしております」と、店員が言うのです。こちらが、「カウンターなんか、ガラガラに空いているだろう」と食い下がると、「そこは、あなた方が入ると通路が詰まってしまうので、お断りします」。そんな風に露骨に拒否されることがくり返しありました。

 そのたびに、「それはないだろう」と憤りましたが、他方で、「これが自分たち障害者に対する現実なのか」ということを痛感しました。自分の中にある社会常識が大きく崩壊していくような出来事の連続でした。まさに、差別を体験することによって、「障害者はいない方がいい」という社会の風潮を実感し、「これが、今の自分たちが置かれている立場なのか」ということを、はじめて認識していきました。

 

外に出て初めて分かること

 

 「17、8歳になれば、差別があることは分かっていたはずでは」と思う人がいるかもしれませんが、実はそうではないのです。

 その頃はまだ、自分が誰かから差別を受けているという漠然とした被害者意識しか持っていませんでした。実際問題として、何も経験していないわけです。ですから、バスに乗ること、電車に乗ること、街を車イスで出歩くこと、そういうことをほとんど経験してない人間が何を考えるかというと、「介護者さえいれば、どこへでも自由に行けるだろう」と、単純に考えてしまうわけです。言わば赤ん坊と一緒で、まったく知識も経験もないわけです。現実はどうなっているのか、何が当たり前のことで、何が当たり前でないのかという判断基準が、何もないわけです。

 両親は現実を分かっていたから、「迷惑をかけるから出るな」と言ったのだと思います。しかし、そのような障害者排除の現実は、自分が外に出始めたから分かったことであって、親に言われた当時は、考え切らんわけです。「何でそこまで言われなきゃいけんのか」と反発しただけです。

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 話はそれますが、今でも少なからぬ障害者が、似たような意識状況に置かれていると思います。施設で暮らしている障害者とか、あるいは作業所とかデイ・サービスとかに通う障害者が、あんなところに一ヵ所に集められて、毎日同じことをやらされていたら、その全然当たり前でない世界が、当たり前の世界になってしまうのです。社会の現実をほとんど知らされないまま、閉じた空間、閉じた人間関係の中にいると、それが当たり前の社会、当たり前の人生と感じて過ごすことになってしまうのです。

 だから、そのような光景を見ると、私は イラ立ちと言うか、「もっと別の生き方があるのになあ。それを探してほしいなあ」と思うのです。

 自力で介護者を集めて地域で生きていくということは、確かに大変なことです。でも、苦しさだけでは決してないのです。苦しいだけだったら、とっくの昔に、こんな生活はやめています。楽しいからこそやっているのです。

 こうやって学習会の場で色々な人と新しく出会って、こういった会話ができるということも、楽しさの一つです。ここからまた、人との繋がりが広がっていくわけです。様々な考えや生き方をもつ人たちと繋がることによって、お互いの可能性もどんどん広がっていくわけです。

 

差別と闘うことが使命じゃないか

 

 さて、このような実際の経験と現実の認識が、「このまま黙っていたらいけないんじゃないか」という意識を強く持たせることになりました。

 そして、ある時、仲間同士で、「バスや電車は、障害があろうとなかろうと、当然同じ乗客として扱うべきじゃないか」、「まずは、障害者の移動の自由を確保する必要がある」ということで話がまとまり、「対西鉄交渉実行委員会」というものを結成して、西鉄などに対する行動を始めました。

 実行委員長は、私でした。周りから「お前がやれ」と無理やり押しつけられたというのが真相です。当時の私は大分の田舎から出て来て時間も経っておらず、しかも引きこもりが長かったせいもあって、右も左も、後ろも前も分かりません。ですから「俺には無理だ」と必死に抵抗したのですが、無駄でした。

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 こうして行動を起こすことにはなったものの、最初は、相手の企業側が私たちの話を聞こうとすることは、まったくありませんでした。こちらはケンカをするつもりはなかったのですが、あまりの対応のひどさに、「何で俺たちの言うことを無視するのか」ということで、実力行使に出たこともありました。そういうことを10年くらい続けていくと、少しずつ企業側の態度も変わっていきました。

 こうした体験や活動を重ねていくうちに、「障害者差別と闘うことが、自分に与えられた仕事、与えられた使命じゃないか」、「自分たちが声を上げることによって、社会を変えていくことができるんだ」と、強く意識するようになっていきました。

 

一番近い所での一番しんどい闘い

 

 私の生き方を決めていく上で、もう一つ大きかったのは、両親との「闘い」です。どちらかと言えば、自分にとってはこっちの方がきつかったと言えます。

 「親に従順に、社会に従順に」、「世間の常識の範囲内で生きていくこと」。それが親の希望でした。具体的には、「施設でおとなしく一生を過ごす」というのが親の希望でした。最終的には、そこしか行くところがなかったですから。

 「どうしても施設が嫌なら、家を改装してタバコ屋をやったらどうか」という話もありました。でも、誰かがいないと自分のことは何一つできないわけですから、タバコ屋をやるにも介護が必要になります。「だから早く結婚しろ」とも言われました。それを聞いた時には、「そんな無茶な。相手もいないのに、どうやって結婚するんか」と思いました。出会う機会すらないのに…。

 しかも、親の要求はそれだけではなくて、「障害がない人を嫁さんに迎え入れろ。それだったら、お父さんたちは何でもしてやる」というものでした。

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 同じような障害をもっている今の母ちゃんと結婚する時には、親から「お前は何ということをしてくれるんか!」と、猛反対されました。その時は、「何を言うんか。早く結婚しろって言ったのはそっちじゃないか」と反論しました。

 幸いその時には、もう私は一人でアパート住まいをしていましたから、「あんたたちとは何を話しても無駄だ。相談しに来たんじゃない。息子として親に報告しに来ただけだ」、「俺はあんたたちとは関係なく生きていく」と宣言して、強引に結婚しました。

 そうやって結婚したのはいいのですが、今度は、子どもができたらできたで、また同じようなことを言われました。「お前、2人で生きていくのも容易じゃないのに、子どもまで作って、いったいどうするんか!」と。それに対しては、「結婚したんだから、子どもができたって、何の不思議もないだろう」と。

 そうは言ったものの、親にそこまで言われたからには、こちらにも意地というものがありまして、「子どもだけは、どんなことがあってもちゃんと育て上げよう」と思って、必死になってやってきました。もう24年も前のことになりますが、あっという間の24年間でした。

                 ◇ 

 一番近い所での闘いが一番しんどかったですね。けれども、それなしには自分の生き方を作っていくことはできませんでした。

 親についていま振り返ってみると、その意識の根底にあるのは、「うちの子が何で障害者になってしまったのか」、「うちの子に障害がなければどんなに良かったか」という後悔というか、呵責の念のようなものだったと思います。

 親父はもう亡くなっていますが、死ぬまでそういう考えだったと思います。母親は現在九一歳でまだ生きています。私がやりたいようにやって、それでも何とかなってきたのを見て、今ではすっかり安堵しているようですが…。

 私にとっては、やはり、16歳の夏に言われたあの一言が、いまだに胸に刺さっているという状態です。

 

一大決心で始めた自立生活

 

 話を若い頃に戻します。自立生活を始めたのは、26歳の時でした。それまでにも、先に自立生活をしていた先輩からは「お前も早くやれ」と言われていたのですが、その自信もなく、なかなか決心がつかないままに、親元から活動に通っていました。

 ところが1982年の秋に、父親が転勤で北九州に行くことになりました。「これ以上親について行ったら、どこまでもついて行かないといけなくなる」、「これが家を出る最後のチャンスかもしれない」。そう考えて、一大決心をしました。半年かけて準備をし、翌83年の2月に自立しました。

                 ◇ 

 ここでも、最大の難関は親でした。朝まで激論を交わすことも、しばしばでした。「何を考えているのか。お前には無理だ」、「今は、周りが良くしてくれるかもしれないが、そのうち変わる。人はそんなに甘くない」というのが、親の主張でした。

 「それは覚悟の上だ。もし生活できなくなって戻って来るようなことがあったら、その時は今度こそ、親の言うことを全部聞いて生きていく。だから一度だけやらせてくれ」。二度と家に戻る気はなかったのですが、この時はそう言って親を説得しました。

 「勝手に家を飛び出してしまえばいいのに」と考える人もいるかも知れませんが、当時、それは容易ではありませんでした。

 私自身、親が何と言おうが家を出る気でいたし、実際のところ、親に話をする前に黙ってアパート探しも始めていました。しかし、不動産屋に行って話を切り出した途端に、「無理です」と断わられることが何度もありました。入居差別です。

 大手の不動産屋にあたって、ようやく「一軒、空きがある」という返事をもらい、そこにしようと決めたのですが、そこでも連帯保証人の問題が残りました。こちらは社会人の人を保証人に頼んで用意していたのですが、不動産屋の言い分は、「親御さんがいるでしょ」というものでした。

 「重度」の、しかもまだ若い障害者を一人で入居させるにあたり、あれこれのトラブルを勝手に想像して、「親の承諾の証明」と「確かな保証人」を求めたのだと思います。だから、当時の私が自立するには、どうしても「親の印鑑」が必要だったわけです。

                ◇ 

 こうして念願の自立を果たしたわけですが、その後の道も決して平坦ではありませんでした。確かに精神的には解放されたのですが、肉体的には厳しい毎日の連続でした。

 自立にあたって私自身が集めることができた介護者は、学生が3人から4人。他に労働者が何人か。学生の場合は授業があります。労働者には仕事があります。ですからほとんどの日は、夜に介護に来て、朝には出て行きます。ですから、昼間は誰かが昼休みに寄るくらいで、たいていは一人で過ごしました。

 

ヘルパー派遣制度ができて

 

 そんな私の日常の暮らしぶりは、当時も今も、ほとんど変わりがありません。

 2003年に、「措置制度」に替わって「支援費制度」ができ、それが「障害者自立支援法」(2006年施行)を経て、現在の「障害者総合支援法」(2013年施行)となり、そのなかでヘルパー派遣制度も整えられていきました。

 しかし、私は、そのヘルパー派遣制度に抵抗し、自前の介護者の協力によって、これまで生きてきました。自立生活を始めた頃と同様に、その生活は今でもけっこう苛酷です。

                ◇  

 私は施設から出た障害者を何人か知っていますが、もう今は、この制度を使えば何とか生きていくことだけはできるというところに来ています。確かに、時間の制約や介護内容の制約など、様々な制約は受けます。だから、私みたいに自由気ままに人と交流するとか、あちこちへ好きに出かけて行くとか、そういうことはできません。けれども制度を使えば、衣食住の面で最低限の生活が何とかできるところまでにはなってきているのです。

 差別と闘うとか、仲間を増やそうとか、地域や社会の変革だとか言わなくても、かろうじて命をつなぐということだけなら、今の制度を使えば何とかなりつつあるのです。確かに、闘わないで済むならそれに越したことはないわけです。けれども現実は、そんなに甘くはありません。闘うべきことはたくさんあるわけです。ところが、制度ができてからというもの、多くの障害者が闘わなくなってしまいました。

 ですから、障害者の側にも、施設から出てアパートなどで生活するようになっても、施設の延長線上のように自分の暮らしを考えているようなところや、「何とか生活できるなら、もうそれでいいじゃないか」と諦めてしまったり、安住してしまったりというようなところがあるように思えるのです。

 

「生きている」ということ、

「生かされている」ということ

 

 しかし私にとっては、「生きている」ということと、「生かされている」ということとは、全然違います。私にとっては、制度に依存した生活は、「生かされている」というふうにしか思えないのです。制度によって管理され、拘束され、「仕事」でやって来るヘルパーに介護された暮らしが、果たして自由な暮らしと言えるのか、幸せな暮らしと言えるのか、と思うのです。

◇ 

 制度を評して「介護の社会化」と言う人もいます。しかしあれは、私に言わせればただの「介護の商品化」です。ヘルパーの介護、あれは私に言わせれば、介護ではなくて、「介護サービス」という商品を売り買いしているだけです。障害者からすれば、「介護サービス」という「便利な商品」を買わされて、消費しているだけです。そこに、人と人との人間らしい交流はありません。生き方をめぐる互いの共感も信頼もありません。あるのは、商売の関係だけだと、私は考えています。

 これまで一身に介護を負わされてきた親にとっては、負担が減るのでいいことかも知れませんが、それが障害者にとってどうなのかというのは、また別の問題です。

 だから、私は、現在の制度は不備が多い、使い勝手が悪いからと言って、今ある制度の改善や充実という方向で運動をしていくつもりはありません。その方向の先に障害者の解放があるとは、とうてい思えないからです。

 誤解を避けるために、あえて2つ。1つは、私はこの考えを、誰かに強制するつもりは全然ありません。私の生き方、私の人生哲学を紹介しているわけです。

 もう1つは、私は、障害者に関する福祉制度というもの一般を否定しているわけではないということです。現在の制度が、根本のところでおかしいと言っているだけです。

 介護のこと、制度のことについては、また別の機会に、詳しくお話ししたいと思います。

 

海外の旅行先で考えたこと

 

 インドには、2001年4月に、アフリカには、2011年の9月から10月にかけて、旅行に行きました。これまで介護などを通して知り合った仲間や、私がかつて大学の講義に勝手に押しかけて知り合った先生たちと一緒の旅です。

 ただ遊びに行ったわけではありません。福祉施設や福祉制度がほとんどない(あるいは行き届かない)インドやアフリカの農村などで生きる障害者たちと交流することで、(これらの人たち)がどんな思いで暮らしているのか、どうやって暮らしているのか、周りとのどんな繋がりのなかで暮らしているのかを、実際に知りたかったからです。「障害者にはどんな生き方があるのか」、「社会とどんな繋がり方があるのか」ということを、日本で暮らすことで染みついた固定観念や常識に縛られずに、改めて考えてみたかったからです。

 「海外の障害者の状況」という場合、国や行政が注目するのは、「福祉政策・福祉制度の先進地」と言われる北欧やアメリカです。障害者が置かれた現状と闘っているはずの運動関係の人たちが見ているのも、同じようにほとんどが北欧やアメリカです。「そうした進んだ制度を、ぜひ日本も導入すべきだ」と言うわけです。でも、私は、そうしたものには興味がありません。

 アメリカの福祉制度は、能力主義そのものだし、北欧のそれは、「ゆりかごから墓場まで」。(「ゆりかごから墓場まで」とは、)一生涯のケアをうたっているわけですが、同時にそれは、生まれてから死ぬまでのレールがすっかり出来上がってしまっているということでもあります。そんな暮らしが人の人生として本当に幸せなのか、私には疑問だからです。

                ◇ 

 インド旅行は、南部の小さな村に行き、「障害者サンガム(組合)」という運動体と交流しました。「障害者サンガム」は、障害者自身の手による「自立・相互扶助運動」という運動に取り組んでいて、村々の多数の障害者を組織し、様々なグループに分かれて、相互支援と権利獲得の取り組みを活発に展開していました。

 アフリカ旅行では、タンザニアに行き、キンゴルウィラ村という地方の村や、事実上の首都であるダルエスサラームで、様々な障害者たちと交流しました。

 インドでも、アフリカでも、「障害者は、この世に存在しない方が幸せ」という社会意識は、「先進国」と同様で、したがって様々な差別の実態があるのですが、他方で、出会った障害者の多くが、政府からの支援も保障もほとんど何も受けず、経済的にも厳しい生活を強いられながらも、明るく、逞しく、自己主張たっぷりで、活き活きと暮らしている姿が、非常に印象的でした。

 2012年6月には、韓国にも行きました。ソウルでは、自分たちの運動のことを障害者解放運動とは言っていませんでしたが、障害者解放運動としか表現のしようがないような、激しい運動をやっている団体に出会いました。地下鉄に障害者を乗せないことに抗議して、車イスごと線路に降りて地下鉄を止めて、やっと政府を動かしたというのです。それをやったのは1980年代のことだそうです。

 海外を旅行することで、自立して生きる、助け合って生きる、闘って生きるということの大切さをいっそう強く意識するようになりました。そして、まずは、能力主義が幅をきかす現在の日本の社会構造を変えることが自分の仕事だという思いを新たにしました。

 

本当に「差別はなくなった」のか?

 

 ところで、私がこんな生き方をしてきたからと言って、これが今の多くの障害者の生き方でもあるのかと言うと、なかなかそうはいきません。様々な人たちと出会う機会を持ち、そこで支え合う人たちと出会う機会に恵まれる障害者というのは、そうはいません。多くの障害者がそのような機会を持てずに、孤立と孤独のなかで暮らしています。

 ですから、障害者差別に関して言えば、制度もできて、もう社会に差別はなくなったかのように言う人もいますが、事実は逆なのです。差別が見えないようにされているだけです。

 確かに、制度のおかげで「昔に比べたら暮らしが楽になった、良くなった」と考えるのは、障害者の親ばかりでありません。障害者自身、そのように考える人が多くなっているのも事実です。しかし、そのような考えの人たちに言いたいのは、この制度には、障害者もこの社会の構成員として位置づけられなければならないという視点が欠落しているのではないかということです。障害者に対する「お荷物扱い」は、全然どこも変わっていないじゃないかということです。さきほど、「ただ生かされているようにしか思えない」と言ったのは、そういう意味です。

                 ◇  

 制度を考える時に、肝心なことがもう一つあります。それは何かと言うと、実は、制度を利用することができる障害者、制度の「恩恵」を受けることができる障害者というのは、ほとんどが「軽度」の障害者とか、あるいは他人との意思疎通がそれなりにできる障害者という、障害者の中でも限られた人たちの話だということです。

 障害者全体のうちの比率で言えば、そのような障害者の方が多数派であり、またそういう人たちには、当然ながら、強い「発信力」があります。だから、「良くなった、差別はなくなった」という話は広く流れることになるわけですが、あくまでそういうことは、表面的な話でしかないわけです。

 実際はどうなのかと言うと、「重度」の身体障害であるとか、知的障害であるとか、精神障害であるとか、様々な障害によって意思疎通が困難な仲間たちが、今なお施設での暮らしを余儀なくされ、その中で虐待や暴行を受け、あるいは職員の手で殺されています。

 つい最近も、千葉県の精神病院で患者が看護師らから暴行を受けて死亡した事件や、山口県の施設で職員が知的障害者に暴行を加えていた事件が報道されましたが、このような施設内での虐待や暴行、殺害事件が今もなお後を絶たないわけです。虐待はむしろ増加しているという調査報告もあります。

 「尊厳死」法制化の動きや「新型出生前診断」の問題もあります。障害者は、「死んだ方が幸せ」、「生まれて来ない方がいい」という優生思想と優生政策が、これほど大手をふって闊歩する時代は、かつてなかったように思います。

 表面では、「制度によって良くなった、差別はなくなった」と言われる一方で、障害者全体のことで考えるなら、状況はどんどん悪化し、逆行しているのです。現状は、半世紀以上前に戻ってしまったような感さえあります。

 だから私は、個人的には人生でやりたいことはほとんど全部やってしまったので、「もういつ死んでもいい」と思うのですが、こういう状況を見ていると、「まだ死ぬわけにはいかない」とも考えるわけです。

 

 

四、地域で生きるということの本当の意味

 

地域で生きる、地域を変える

 

 最近では、「施設から地域へ」とか「障害者の社会参加」とかということが、運動の側からだけでなく、行政の側からも言われるようになりました。そこには、今ある社会に障害者を「受け入れてやろう」、「受け入れてもらう」というニュアンスがあるように思えてなりません。誰にとっても耳触りはいいのですが、誰の心も揺さぶるものではないような気がします。

 けれども、障害者解放運動が当初から言ってきた「地域で生きる」というのは、そういうものではありませんでした。「今ある地域社会に加わり、ただそこで生活する」ということではなかったのです。それは、今ある地域、今ある社会を変えていくという挑戦でした。

 私が属している「青い芝の会」に即して言えば、「地域で生きる」とは、障害者が、家や施設から地域に積極的に出て、「ここに障害者がいるぞ」と自分たちの存在を主張し、地域の人々と、ある時は摩擦を起こしながらも、その存在を認めさせ、地域の人々の差別意識を変え、差別の現実を変えていくという、人生をかけた試みだったのです。そして、その趣旨に心を揺さぶられた多くの健全者が、それを支えるために介護を担いました。

                ◇ 

 しかし、一口に「地域で生きる」、「地域を変える」と言っても、それは容易なことではありませんでした。

 私は今、団地に住んでいますが、かつて私の息子が産まれた時に、介護者を増やさなければニッチもサッチもいかない状況に追い込まれました。そこで、「できることは何でもしよう」と考えて、近所の保育園の保護者会などの場を通じて、団地の住民に広く介護を呼びかけたことがあります。

 その時には、けっこう大きな広がりができました。ところが、ほどなく、「あそこに関わったら夜中でも呼び出される」というウワサがパーッと広まりました。いくら何でも、そんな非常識なことをする訳がないのです。根も葉もないウワサ話にすぎません。しかし、それによって、まるで潮が引くように人が去っていきました。残った人は、ほんのわずかでした。

 「ウワサだけで人は変わるものなのか」。それを知った時は大変にショックであり、また悲しくなりました。そして、その時に改めて思ったのは、出会う人一人ひとりを大事にし、ちゃんと見て、慎重に関係を作っていくことの大切さでした。

 

私が介護者に求めてきたこと

 

 そういう苦い経験もしながら、自力で介護者を集め、「地域で生きる」ことを追求してきました。

 そのなかで、私が介護者に求めてきたことがあります。それは、せっかく自分の大切な時間を割いて関わる以上、介護を「衣食住の手助け」ということだけで終わらせてほしくない、ということです。「重度」の障害者が地域で自立生活をするには、「衣食住の手助け」が是非とも必要だということは、言うまでもありません。ですがそれだけならば、介護者の関わり方は、ヘルパーと同じになってしまいます。「有給か、無給か」の違いがあるだけです。

                ◇ 

 私が介護者に対して心を砕いてきたのは、上手な介護の仕方ではありません。介護の仕方ということに関して言えば、これまで介護者がどんなやり方をしても、どんな失敗をしても、あまり気にしたり、腹を立てたりしたことはありません。

 外で一緒に酒を飲んだ帰りに、酔っ払った介護者がろくに前も見ずに車イスを押して、道路わきの電柱に車イスを正面衝突させたこともあります。手前で「危機」が迫っていることに気づいた私が大声で叫んでも、本人はまったく気がつきません。おかげで私は、電柱で股間を強打してしまい、目から火が出るほどの激痛を味わうことになりました。

 ついでに失敗談をもう一つ。これも酒がらみの話ですが、雪が降りしきる真冬の夜のことでした。家まで帰るつもりが、酔った介護者が途中で道を間違えてしまいました。しかも、本人は、間違えたことにも気づかずに、ひたすら車イスを押し続けたのです。私もすっかり出来上がっていたのと、雪除けのフードをスッポリかぶっていたのとで、ほとんど前を見ていませんでした。途中で、「どうもおかしいぞ。方向が違うんじゃないかなあ」とは思ったのですが、気づいた時には、高速の福岡インター入り口あたりまで来ていました。もう真夜中になっていて、周りは真っ暗。雪もいつしか冷たい雨に変わっていました。そこでようやく酔いから醒めて我に返った介護者が、 「ここはどこだ?…」。そこからまた2人で、雨の中を延々二時間かけて帰りました。

 しかし、私は、介護者を責める気にはなりませんでした。本人に悪気はないのですから。「介護者としての自覚」とか「介護者の責任」とかということを言う人もいますが、私は、介護で何らかのトラブルが生じた場合、それは、お互いの責任だと思っています。

                ◇ 

 私が心を砕いてきたのはそういうことではなくて、介護者に「差別の現実をどう伝えるか」ということです。私は、介護を通じて健全者に、障害者が日頃どんなことを考えて、どうやって暮らしているのかを実際に知り、そして障害者が人間らしく生きることを困難にしているこの社会の現実を知ってほしいのです。

 そうすることで、社会のあり方に少しでも疑問を持ち、それまでこの社会を当たり前のように受け入れてきた自分自身の差別性に気づき、これからの自分の生き方、社会に対する向き合い方を考えていくための一つの契機にしてほしいと思うのです。

 そのために私は、介護者に自分自身の体をさらし、生活をさらし、生き方をさらしてきました。

 誤解がないように言いますが、私は介護者に、生き方を変えるよう求めている訳ではありません。私にできることは、障害者としての私の生き方をさらすことで、私に関わる健全者の生き方の選択肢を広げることだけです。

 

大切なのは介護者との関係作り

 

 ともあれ、介護者を募ることは容易ではありません。しかも、年を追うごとに厳しくなっているというのが実感です。「一人でも多くの人に介護に加わってほしい」―それが私の切なる思いなのですが、しかしそうは思っても、私は知り合ったばかりの人に(例え介護者募集の取り組みの最中に出会った人であっても)、いきなり介護に誘うようなことはしません。

 いきなり介護の話を持ち出すと、ほとんどの人は構えてしまい、引いてしまいます。むしろ、私は、その前の関係作りが大切だと思うわけです。だから、私が相手に言うのは、「今度、ゆっくり話をしませんか」ということです。

 そして、相手が何か興味を感じて話を聞きに来てくれれば、そのまま自然にすんなりと、「介護を体験する」ことになります。話をしている障害者を目の前にして、自分だけお茶を飲んだり、食べたりするというのは、人としてなかなかできることではありませんから。

                 ◇ 

 でもこれは、ただの「勧誘のテクニック」として言っているわけではありません。何か共通の目的を一緒に達成するために(この場合で言うなら、障害者と一緒に話をするという目的のために)、介護をする。介護とは、本来そういうものではないかと私は思うのです。

 相手が私の話に何か共感するものがあり、そしてまた私がその相手に何か共感するものがあれば(たとえ考え方や生き方に違いはあっても、障害者と健全者との間に、大きな方向で互いに共有できる「何か」があれば)、そこに介護が生まれます。その共有関係が続けば、介護も続きます。

 私は、お互いに共有するものが何もないような、「介護のための介護」を望みません。それでは、施設の職員から介護を受けているのと一緒です。せっかく地域に住んでいても、施設にいるのと一緒です。

 

差別―被差別の関係性について

 

 では、私がこれまで介護者との間で作ろうとしてきた関係とは、いったいどのようなものなのか? そのことについてお話しします。

 それは一言で言えば、「差別―被差別の関係性を踏まえた上での対等な人間関係」です。「対等な関係」というと、色々な誤解を生みそうですが、私が言いたいのは、あくまで「差別―被差別の関係性」を前提として、その上に成り立つ「対等な関係」です。

 まず、「差別―被差別の関係性」ということについて、お話ししましょう。

 あらかじめ言っておきますが、「差別―被差別の関係性」という話は、ふだんは慎重の上にも慎重にすることにしています。介護に関わる上での前提だからといって、いきなり最初からこの話を持ち出しても、やはり健全者の多くは引いてしまいます。私は、相手が受け止められるかどうか、その時期はいつか、どこまで理解したのかということを考えながら、話すことにしています。

 逆に「物分かりのいい人」にも、丁寧な対応が必要だと思っています。こと差別問題に関しては、「すぐに分かる人ほど早く消えていく」というのが、私の経験上の実感だからです。要するに、「分かったふり」や「きれいごと」では続かないのです。

                  ◇ 

 さて、本題ですが、障害者と健全者との間には、たとえどんなに長く付き合ったとしても、またどんなに親しく接したとしても、決して超えることのできない立場の違いというものがあります。

 能力主義や優生思想がはびこる今の社会は、障害者を「邪魔者」、「不幸な者」と見る社会であり、障害者に生存権すら認めない社会です。このような社会のなかで生きてきた以上、健全者は、否応なく何がしかの差別意識を持ち、しかもその差別意識は、今もなお様々に形を変えて、新しく植えつけられています。差別への不断の緊張と闘いなしには、いとも簡単に差別者に転落します。その気になれば、いつでも障害者を置き去りにして、差別社会の担い手に回帰していくことができます。どこまで行っても健全者は、差別する側、してきた側、そしていつでも差別できる側にあるのです。

 これが、私が言いたい「差別―被差別の関係性」ということの意味です。

 

差別問題は「暗くて重い」?

 

 このように言うと、私が健全者に対して、「健全者であること」を一方的に責め立てているように受け取る人がいるかもしれません。しかし、私は、そんな理不尽なことを言っているのではありません。

 私もまた、精神障害者や知的障害者、被差別部落の人々、在日朝鮮人など、他の被差別の人々には、差別する側にあります。(こういう人たちが)置かれた差別の状況を、私が知らない、関知しないとすれば、私は、自分にそのつもりがあろうがなかろうが、差別の加担者です。差別の現状を放置し、これに暗黙の了承を与えることで、差別に加担しているのですから。

 私が言いたいのは、今の社会では、誰もが否応なしにそういう関係の中に置かれてしまっているということであり、だからこそ、学び合いが必要だということです。

                ◇ 

 あるいは、私から、何か「暗くて重い問題」を突きつけられたように感じて、沈んだ気分になる人も少なくないと思います。でもこれは、実は、「暗くて重い」話どころか、将来がパァーッと明るく開けてくるような話なのです。

 「差別―被差別の関係性」を自覚する。そうすることによってはじめて、自分が持ってきた(持たされてきた)差別意識や偏見に気づき、自分を改め、自分を磨いていく力を養うことができます。これまで当たり前のことのように感じ、受け入れてきたこの世の差別を自分で感じとる力、立ち向かっていく力を培うことができます。そうすることによってはじめて、社会を変えていこうという共通の思いが芽生えるのです。

 もっと広く言えば、社会の常識に縛られ、流されて生きるのではなく、この世の常識を疑い、その理不尽に気づき、常識を覆していこうという、社会全体に対する主体的で積極的な見方、関わり方のきっかけにすることができるのです。

 

対等な人間関係ということ

 

 次は、それを踏まえた「対等な人間関係」ということについてです。

 「対等な関係」ということを、言葉で説明するのはなかなか難しいのですが、そのことで、まず最初に思い浮かぶのは、「できないことはできないと認め合える関係」です。自立生活を始めた頃は、私もまだ若く、自分の生活を維持することに頭がいっぱいで、相手の介護者が置かれた状況を考えることができませんでした。考える必要も感じていなかった、と言った方が正確かもしれません。とにかく介護者を確保する。それだけで頭がいっぱいでした。

 無理に頼めば、相手もこちらの厳しい事情は知っている訳ですから、無理を押して介護に入ってくれます。しかし、それを重ねていると、その時々は何とかなっても、ある時、積もり積もった無理がドカンと爆発して、突然去って行ってしまう。それで、何度か失敗しました。「できないことはできないと言える関係」、それをまず意識して作らないと、「対等な関係」は生まれません。

                 ◇  

 次に思い浮かぶのは、「自然体で付き合える関係」です。馴れ合うということではありません。「差別―被差別の関係性」を常に意識しつつ、真剣に議論を戦わせ、あるいは酒を飲んで気さくに語り合い、ときにはマジでケンカもする、そういう関係のことです。そういうなかで私自身、多くのことを健全者から学んできました。

 そしてそのような関係の上に、「互いの悩みをぶつけ合えるような信頼関係」を作ってきました。私が聞いてもらいたい悩みもグチもあります。逆に、学生の頃からの介護者で、今は学校の先生をしている人の障害児教育に関する悩みの相談に乗ることもあります。介護者が抱える悩みについて、障害者として生きてきた者でなければできない答えもあるのです。

                  ◇  

 そのような関係ができるならば、介護者が卒業、就職、転勤を機に、音信不通になってしまうということもありません。私には、遠方に引っ越すことになり、したがって私の日常的な介護を離れても、年に何回かは連絡を取り合い、語り合う仲間が、決して多いとは言えませんが、各地にいます。「生涯にわたって付き合い続けていける友人関係」と言ったらいいでしょうか。

 私が言いたい「対等な関係」とは、大だいたいこういうことです。

 

私が制度を利用しないワケ

 

 障害者であろうとなかろうと、人生の最大の敵は孤独です。孤独のなかで人は生きていくことができません。人との繋がり、信頼できる人との繋がりが不可欠です。

 私が介護者と作りたいのは、差別を許さないという思いを共有し、互いの生き方への共感と尊重の上に立って、何でも腹を割って語り合い、お互いの力、お互いの支えになれるような仲間です。そういう仲間たちの繋がりです。

 そういう繋がりが全国各地にあれば、「旅行は日帰り」だとか「県をまたいだ移動支援はできない」とかの制約が多い現在の制度(各自治体によって違いはありますが)に拘束され、支配されることもありません。仲間たちの繋がりを力に、自分の自由意思で全国を動き回れるし、行こうと思えば、海外にも出かけて行けます。

                 ◇  

 ところが、こういう関係はヘルパーとの間では絶対に築くことはできません。むしろ、こういう関係作りの対極にあるものが、ヘルパー派遣制度だと言えます。だから私は、この制度を利用する気にはなれないのです。

 ヘルパーは、仕事で私の介護をするのです。私という人間の考えや生き方に何か共感するものがあって、私の介護をする訳ではありません。当然のことながら、「差別―被差別の関係性」を問題にし、共に差別と闘うために、介護をする訳でもありません。ヘルパーにとって私は、ただの「利用者様」、ただの「サービス購入者」でしかないのです。

 だから私は、ヘルパーがたとえどんなに良心的な人であっても、またたとえどんなに長い関わりになったとしても、ヘルパーに「互いの悩みをぶつけ合えるような友人」や、「生涯にわたって交流を続けていける仲間」を求める気はないし、ヘルパーにしても、「利用者」からそんな関係を求められたら、それこそ大迷惑というものでしょう。

 もしも、ヘルパーとの間でそれが可能になることがあるとすれば、それは、ヘルパーがヘルパーであることをやめた時です。

 

制度について私が思うこと

 

 ただし、これははっきり言っておきたいのですが、私は制度を使うこと、あるいは制度を使う人を非難しているわけでは決してありません。様々な事情から、制度を使わなければ生きていけない障害者が多くいます。そのことを非難したり、批判しているわけではないのです。一人の介護者を獲得することがどんなに困難なことかは、私自身、誰よりも身にしみて知っているつもりです。

 私が言いたいのは、制度に全面依存したら、「地域で共に生きる」という、障害者解放運動が歴史的にめざしてきた大切なものが、全部消されてしまうということです。障害者が「地域や社会の差別を変革していく主体」であることをやめ、「制度によって生かされるだけの存在」にされてしまいかねないということです。

 そうなれば、障害者は、制度の枠に縛られながら、そして制度が変わるたびに振り回されながら、それでもなお、制度にすがって生きていくしかありません。障害者の「生殺与奪の権」を、国や事業者ががっちり握ってしまうことになるわけです。

 だから、私は、制度を利用する障害者、とりわけほとんど制度を利用することしか知らずに育ってきた若い障害者に、ヘルパー以外にさしあたりはたった一人でもいいから、自前の介護者を地域で獲得して、「共に差別と闘う仲間作り」を、「生涯の付き合いができる友人作り」を、していってほしいと思います。それができれば、自分にとって、もっと豊かな人生が送れるようになると思うのです。

 

私が生き方を変えない理由

 

 介護者を自力で募集し、日々の介護者を必死になって確保しながら生活する。その介護者と、差別について、人生について、語り合い、共に差別と闘う仲間、共に生活を支えてくれる仲間を懸命に育て、増やしながら暮らしていく。

 一頃前までは、それが、障害者のメジャーな生き方でした。そうしなければ、家や施設から出ることができなかったからです。地域で自立生活をするというのは、元々そういうことでした。

 ところが、制度ができてからというもの、今ではそれが、すっかりマイナーな生き方になってしまいました。制度がある以上、「そこまでする必要を感じなくなった」、「キツイことはもうイヤだ」というのが本音なのだと思います。

               ◇   

 かつての運動仲間の中には、生き方を変えない私のことを、「過去の歴史的遺物」だとか「生きた化石」だとか言う人もいます。

 しかし私は、介護者がどうにも見つからない時に、やむなくガイド・ヘルパーを利用することはあっても、ヘルパー制度に依存して日々暮らすということは、決してしたくないのです。

 というのは、介護をして私の生活や活動を支えてくれた人の中には、私の生き方に共感し、自分の生き方を変えていった人が何人もいます。職業を変えた人もいます。そうやって人の人生に影響を与えた以上、私には、(こうした人たちに)対する責任があると感じてきました。

 それを、今になって「疲れたから」、「しんどいから」と言って投げ出したりしたら、私を信頼し関係を作ってきた人たちを裏切ることになります。それは、絶対にしたくありません。人に言ったことの責任は、最後までとり切る必要があります。

 だから、今の生活がどんなに苛酷であろうと、私はこの生き方を変えるつもりはありません。

〈了〉